今週のみことば


5月2日

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「信仰の弱い人を受け入れなさい
その考えを批判してはなりません
何を食べてもよいと信じている人もいますが
弱い人は野菜だけを食べているのです
食べる人は
食べない人を軽蔑してはならないし
また、食べない人は
食べる人を裁いてはなりません
神はこのような人をも受け入れられたからです」
(ローマ人への手紙14章1-3節)

イスラエルには食物に関する律法があり
それは長い歴史を経ても
なお人々の中で根強く残っていました
主イエスご自身によって
それらを含めた「律法」は
人の救いには関係しないとされましたが
長年続けてきたことを変えるのは
人によってはとても難しいことなのでした

(注)「食に関する律法」の内容については
レビ記11章に記されている
「清いものと汚れたものに関する規定」を参照してください

このように当時は
律法の時代の延長として
食に関する制限を重んじる習慣が残る人は多く
律法では禁止されていた食べ物を食べるか食べないかで
各々の間にいさかいが起こることもあったようです

人は”他人がどうしているか”がとても気になる生き物なので
それぞれの生き様やこだわりに対して寛容になれず
自分の主義と違う行動をする人がいると
裁きたくなる傾向があります
そこでパウロは
各人が尊ぶこと(こだわること)について
「それは、各自が自分の確信に基づいて決めるべきこと」(5節)
とした上で
「もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)
と戒めています

「あなたがたにとって善いことが
そしりの種にならないようにしなさい
神の国は飲み食いではなく
聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです
このようにしてキリストに仕える人は
神に喜ばれ、人々に信頼されます
だから、平和や互いの向上に
役立つことを追い求めようではありませんか」(17-19節)


自分にとって正しいと思うことが
他人を批判する材料になるのであれば
それを主張するのは平和的ではありません
ましてや食べ物については
「神が清めた物を清くないなどと
あなたは言ってはならない」
(使徒行伝10章15節)

と、ペテロが神から直接言われているように
何を食べても
人がそれで汚れることなどないのです

「イエスは言われた
『あなたがたもそんなに物分かりが悪いのか
すべて外から人の体に入るものは
人を汚すことができないことが分からないのか
それは人の心に入るのではなく
腹の中に入り
そして外に出される
こうして、すべての食べ物は清められる』」
(マルコによる福音書7章18-19節)

「しかし、口から出て来るものは
心から出て来るので
これこそ人を汚す
悪意、殺意、姦淫、みだらな行い
盗み、偽証、悪口などは
心から出て来るからである
これが人を汚す」
(マタイによる福音書15章18-20節)


このように
食べ物によって人が汚れることはないと分かってもなお
それをそのまま受け入れることができない人がいても
それは仕方がないことです
ここでは「食べ物」についての問題となっていますが
これを「信仰」に置き換えてみると
信仰のスタイルというものも
人それぞれ色々あって
あの人は信仰がないとか
あんな信仰ではダメだとか
裁きの対象になることもあるでしょう
しかし
自分も含めて
みんなそれぞれ事情もあり
考え方もさまざまで
人の生き様をいちいちとやかく言うのは
平和的ではありませんし
神に喜ばれることではないのです

世の中には色んなことがあり
色んな人が存在していても
すべての人は神によって生かされ
わたしたちもその中の一人です

「わたしたちの中には
だれ一人自分のために生きる人はなく
だれ一人自分のために死ぬ人もいません
わたしたちは
生きるとすれば主のために生き
死ぬとすれば主のために死ぬのです
キリストが死に、そして生きたのは
死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」
(ローマ人への手紙14章8-9節)


各々が自分のこだわりや正しさの基準を持っていても
自分にも他人にも寛容であること
そして
「平和や互いの向上に役立つことを
追い求めようではありませんか」(19節)




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