今週のみことば


5月23日

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「さて、兄弟たち
わたしたちの主イエス・キリストの名によって
あなたがたに勧告します
皆、勝手な事を言わず、仲たがいせず
心を一つにし思いを一つにして
固く結び合いなさい
わたしの兄弟たち
実はあなたがたの間に争いがあると
クロエの家の人たちから知らされました
あなたがたはめいめい
『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』
『わたしはケファに』『わたしはキリストに』
などと言い合っているとのことです
キリストはいくつにも分けられてしまったのですか
あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」
(コリント人への第一の手紙1章10‐13節)

コリントの教会の信徒に対してパウロが勧告している内容を見ると
現代の教会にも同じ問題があることが分かります
教会における指導者(牧師)を
「先生」として信頼するのは大切な事ですが
人間はあくまでも人間で
「神」と混同してはいけません
また
指導者自身も自分を
神のように思わせてはいけない
パウロは
その点を厳しく戒めているのです

どんなに長い時を経ても
『神ではなく人を見る信仰』という問題はなくならず
だからこそこうして正しいことを
聖書を通して教えられなくてはならないわけで
3章にも同じような内容が記されています

「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い
『わたしはアポロに』などと言っているとすれば
あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか
アポロとは何者か
また、パウロとは何者か
この二人は、あなたがたを信仰に導くために
それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です
わたしは植え、アポロは水を注いだ
しかし、成長させてくださったのは神です
ですから、大切なのは
植える者でも水を注ぐ者でもなく
成長させてくださる神です

(コリント人への第一の手紙3章4‐6節)


指導者がもし
自分に特別な霊力があるかのように言い始めたら
それは信仰が曲がっていることの表れです
指導者の中に
特別な存在はなく
みな同じ人間にすぎません
ただ
指導者としての役目を与えられているだけのこと
そして
神が働いてくださるからこそ
そこに恵みの業が成るのです

もしパウロに野心があったなら
自分が崇められるようにもっていくこともできたはずです
彼は家柄もよく学もあり言葉も巧みでしたから
「人間の上辺を見る人」にとっては
まさに神のような存在となったことでしょう
しかしパウロは
神の前には
そのような上辺のものに意味がないことを知っていました

「十字架の言葉は
滅んでいく者にとっては愚かなものですが
わたしたち救われる者には神の力です
それは、こう書いてあるからです
『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし
賢い者の賢さを意味のないものにする』」
(コリント人への第一の手紙1章18‐19節)


「また、神は地位のある者を無力な者とするため
世の無に等しい人
身分の卑しい者や
見下げられている者を選ばれたのです
それは、だれ一人
神の前で誇ることがないようにするためです」(28‐29節)


パウロは17節に
自分の役目は洗礼を授けることではなく
キリストの福音を伝えることだと記しています
現在でも
自分が有名な指導者から洗礼を受けたことを
誇りとする人があるように
当時も
パウロから洗礼を受けることを
特別な事として考える人があったかもしれません
こういう「人の誇り」の問題は
キリストの福音とは無関係なものですが
人と神を混同する信仰感は
いつの時代にも変わらず存在し
キリストの福音を理解する妨げとなっています

そもそも洗礼は
神ご自身が全人類の罪を背負って
十字架上で流した血による罪の許しであり
それができる方は神だけです
そして
洗礼によって神であるキリストに結ばれた者は
その信仰によって世の不安に打ち勝つことができる
それを体験し、確信することを
「神をつかむ」と言い
目には見えなくても共に歩み、助けてくださる神の存在を
確信していることが信仰なのです

ですから
人の上辺を見ている間は
「神をつかむ」ことは難しいでしょう
あくまでもすべてのこと神に栄光を帰さなくては
本当の信仰ではないからです

コリント人への第一の手紙1章の最後は
『誇る者は主を誇れ』と記されています
パウロは自分の誇りではなく
キリストを誇りとして伝え続けました

クリスチャンは
キリストに結ばれていることを喜びとし、誇りとし
そこに希望をもって歩むことが大切です

「しかし、主はサムエルに言われた
『容姿や背の高さに目を向けるな
わたしは彼を退ける
人間が見るようには見ない
人は目に映ることを見るが
主は心によって見る』」
(サムエル記上16章7節)



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