今週のみことば


5月30日

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「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき
神の秘められた計画を宣べ伝えるのに
優れた言葉や知恵を用いませんでした
なぜなら、わたしはあなたがたの間で
イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外
何も知るまいと心に決めていたからです
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて
恐れに取りつかれ、ひどく不安でした
わたしの言葉もわたしの宣教も
知恵にあふれた言葉によらず
”霊”と力の証明によるものでした
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく
神の力によって信じるようになるため
でした」
(コリント人への第一の手紙2章1-5節)

神の言葉を伝える時に
人の話術に頼ると
その人が魅力的に見えて
神ではなく
人を見る(頼る)信仰になることがあります

そのように自分がほめられるのは
気持ちがいいことかもしれませんが
指導者がそれを求めていくと
信仰の道は曲がってしまいます
指導者は自分が崇められるようにではなく
自分の知恵やがんばりによらず
神の力によって人々が信じていくように
導くことが重要なのです

そもそも「人の知恵」と「神の力」との間には
比べようもないほどの大きな隔たりがあって
人が想像もしなかったようなことを
善いことも悪いことも含めて
神は自在に起こし
その先に何が起こるか
この世の中がどうなっていくのか
人間の知恵では見通すことができません

「『目が見もせず、耳が聞きもせず
人の心に思い浮かびもしなかったことを
神は御自分を愛する者たちに準備された』
と書いてあるとおりです
わたしたちには
神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました
”霊”はいっさいのことを
神の深みさえもきわめます
人の内にある霊以外に
いったいだれが、人のことを知るでしょうか
同じように
神の霊以外に
神のことを知る者はいません

わたしたちは、世の霊ではなく
神からの霊を受けました
それでわたしたちは
神から恵みとして与えられたものを
知るようになったのです」(9‐12節)


同じ人間であっても
自分のことが分かるのは自分だけで
他人の内面については理解できないように
神のことは神の霊(聖霊)でなくては分かりません
そこにある
「神の秘められた計画」についても
それを人の知恵で理解することはできず
受けいれることもできないのです

そして
神の言葉が記された聖書も
信じない人にとっては愚かなものとされ
洗礼と聖霊を受けて救われる者には「神の力」となる
(コリント人への第一の手紙1章18節より)
また
人は神になることはありませんが
キリストの心(考え)を持つことで
神に近づくことができます

「神に近づきなさい
そうすれば、神は近づいてくださいます
罪人たち、手を清めなさい
心の定まらない者たち
心を清めなさい」
(ヤコブの手紙4章8節)


神に近づくことは
神がどういう方であるかをよく知ることでもあります
人間にとって都合のいい神は
自分の願い通りのことをしてくださる方ですが
神にとって正しいことが成るためには
人間に不都合なことも起きてきます

「『目が見もせず、耳が聞きもせず
人の心に思い浮かびもしなかったことを
神は御自分を愛する者たちに準備された』

と記されていても
この世の中を生きていく途中経過においては
つらく厳しい所を通されることもあるでしょう
それは決して楽しいことではないにしても
そこに神の力が働いて
すべてのことが益となり
最終的に幸いにつながっていくとすれば
厳しい道も神のご計画の内にあることが分かります
そして
その厳しさの中で神の力を見る経験は
神の本質を知り、いよいよ神に近づく機会となるでしょう

「すべてのものは、神から出て
神によって保たれ、神に向かっているのです」
(ローマ人への手紙11章36節)


今あること、置かれているところは
当たり前ではなく
すべてのことは神によってなり
人の生死も、通される道も
神が決めるものです
ですから
各々自分の思いや願いはあっても
まず神のみ旨が成るようにと祈ること
ああなれば、こうなれば幸せだろうと
人の知恵で色々考えるより
平和の神が開いてくださる道が
一番平和で幸せだからです

神のご計画(思い)がどこにあるのか
わたしたちにはそれが分からなくても
その思いを尊重することはできます

「『だれが主の思いを知り
主を教えるというのか』
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」
(コリント人への第一の手紙2章16節)


このみことばは
当教会今年の「年頭のみことば」でもあります
聖霊を受け
神の力によって信仰が強められ
キリストの心と思いを共有する者として
どんなところにあっても希望を持って歩むよう
その信仰が成長していきますように



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