今週のみことば


6月6日

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「兄弟たち、わたしはあなたがたには
霊の人に対するように語ることができず
肉の人、つまりキリストとの関係では
乳飲み子である人々に対するように語りました
わたしはあなたがたに乳を飲ませて
固い食物は与えませんでした
まだ固い食物を口にすることができなかったからです
いや、今でもできません
相変わらず肉の人だからです
お互いの間にねたみや争いが絶えない以上
あなたがたは肉の人であり
ただの人として歩んでいる
ということになりはしませんか」
(コリント人への第一の手紙3章1-3節)

クリスチャンとは
イエスの名による救い(洗礼と聖霊)を受けて
キリストのものとなった人のことですが
そうなってもなお人の心からは
「ねたみや争い」といった肉の思いは消えず
せっかく救われたはずなのに
そして
クリスチャンとしての教育を受けながらも
その歩みは「肉の人=ただの人」と同じではないかと
パウロは訴えています

「ある人が、『わたしはパウロにつく』と言い
他の人が、『わたしはアポロに』などと言っているとすれば
あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか
アポロとは何者か
また、パウロとは何者か
この二人は、あなたがたを信仰に導くために
それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です
わたしは植え、アポロは水を注いだ
しかし、成長させてくださったのは神です」(5‐6節)


今も昔も、「人による救い」を求める人は多く
目に見えない神よりも
実際に動いている目に見える指導者が
何か自分たちに益をもたらしてくれるという信仰感は
これからもなくなることはないのでしょう
しかし
このような「人を見る信仰」は
自分の肉の心に従った信仰なので
人を喜ばせることはあっても
神に喜ばれることはありません
なぜなら
このような人には
”神の領域”という感覚が
理解できないからです

かたい種から芽が出るのも
出た芽が成長することも
その後にどんな花が咲き実が生るのかも
それはすべて神が決められることです
そして
人の人生も
どのようになっていくのか
それは誰か人に依存してみても
誰にも先のことは分からず
自分の思うようにもなりません

このように
救われてクリスチャンになったからと言っても
「ねたみや争い」
「人を見る信仰」
といった内面の部分がいつまでも変わらないままでは
信仰者としてとても残念な状態です
だからこそ
わたしたちは聖書から正しい考え方を教えられて
信仰的に乳飲み子の状態から
神に喜ばれるところの大人の信仰者として
成長していかなくてはなりません
それは
神の畑にまかれた種の生長や
神の建物の建築に例えられます

「わたしたちは神のために
力を合わせて働く者であり
あなたがたは神の畑、神の建物なのです
わたしは、神からいただいた恵みによって
熟練した建築家のように土台を据えました
そして、他の人がその上に家を建てています
ただ、おのおの
どのように建てるかに注意すべきです
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して
だれもほかの土台を据えることはできません」(9‐11節)


パウロは
クリスチャンの人生の土台がキリストにあり
その土台の上に
自分という名の建築をするのだと教えています
その時には
どのような建築(生き方)をするのかに注意し
何よりも土台を別のものに変えてはなりません
聖霊を受けた者は
神の霊が自分の中に住んでおり
自分自身が神の神殿だからです

「あなたがたは、自分が神の神殿であり
神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか
神の神殿を壊す者がいれば
神はその人を滅ぼされるでしょう
神の神殿は聖なる者だからです
あなたがたはその神殿なのです」(16−17節)


神の霊が内に住んでいるということは
すなわち、神の守りがあるということですから
人生においてこれほど心強いことはありません
その一方で
自分の人生だからと
好き勝手にして台無しにしてしまうことも
許されることではないのです

「あなたがたはキリストのもの
キリストは神のものなのです」(23節)


クリスチャンはキリストのものであることを心に留めて
人の誇りや争いから離れ
各々がキリストを人生の土台として
その上に良い建築ができるように歩むこと
そのためにも
一人一人の心は変わっていく必要があります

信仰者と言っても
中には人を支配したいタイプの人もあり
そういう人が正しい信仰を曲げてしまうので
それに惑わされてはいけません
人は迷うものですが
どこにどんな惑わしがあっても
自分の信仰が
人間を恐れるものではなく
キリストを土台としたものであれば
必ず正しい判断ができます

真面目な人は
常に自分は正しくないのではと思い悩み
悪い人ほど常に自分が正しいと思うもので
人はそれぞれ自分の思いによって
何かと振り回されるのですが
キリストの土台の上に建築する者は
本当に正しいこととそうでないことは
必ず教えられていくのです

こうして聖書に残されているパウロの言葉は
何とかして人々にキリストの福音を伝えたい
との一心で発せられたもので
彼の心に愛(=神)があるからこそ
時代を超えて人の心に響くものとなっています

反対に
人の心に愛がないと
どんな立派な言葉を並べても
心に響くことはありません

良いことを言っているようで
実は人を利用しようとしている人の言葉には
愛がないので
すぐにわかってしまうのです

このように
神であるキリストを土台とした人生は
愛を土台にした人生ですから
信仰することによって
ものの考え方も変わって
正しい判断もできるようになります

救いを受けた時は
まだ乳飲み子の信仰者であっても
人生で色んな所を通されるうちには
神の力を知る機会はたくさんあります
その中で
正しい道を教えられて進み
キリストを土台とした良い建築をして
神に喜ばれる者となっていくことができますように



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