今週のみことば


6月13日

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「こういうわけですから、人はわたしたちを
キリストに仕える者
神の秘められた計画をゆだねられた管理者
考えるべきです
この場合、管理者に要求されるのは
忠実であることです
わたしにとっては
あなたがたから裁かれようと
人間の法廷で裁かれようと
少しも問題ではありません
わたしは、自分で自分を裁くことすらしません
自分には何もやましいところはないが
それでわたしが義とされているわけではありません
わたしを裁くのは神なのです」
(コリント人への第一の手紙4章1-4節)

4章は
パウロたち「使徒」と呼ばれる人が
どういう役目を持ち
どのような生き方をしているかが記されています

まず出だしを読むと
このコリントの教会には問題があって
パウロを裁く人々がいたことが分かります

コリントの教会は
元はパウロが立ち上げたものですが
彼はずっとそこに居るわけではなく
別の人たちが教会の責任者になっていくうちに
パウロが最初に教えたキリストの福音とは違う
別の教えが広がっていきました

そのため教会の中には
「パウロ派」「アポロ派」といった派閥ができ
混乱が起きていました
そして
そこには指導的立場の首謀者がいて
何も間違っていないパウロを悪者にし
自分たちは高い地位について
豊かな生活をしていたようです

「あなたを他の者たちよりも
優れた者としたのは、だれです
いったいあなたの持っているもので
いただかなかったものがあるでしょうか
もしいただいたのなら
なぜいただかなかったような顔をして
高ぶるのですか
あなたがたはすでに満足し
すでに大金持ちになっており
わたしたちを抜きにして
勝手に王様になっています
いや実際、王様になっていてくれたらと思います
そうしたら、わたしたちも
あなたがたと一緒に
王様になれたはずですから」(7‐8節)

このあとパウロは
使徒として実に過酷な目に遭い
この世で愚か者とされ
ののしられ
迫害されても
なお優しい言葉を返しながら
今に至るまでずっと
ゴミのような扱いを受けていることを告白しています
それでも
使徒として選ばれたからには
”キリストに仕える者”
”神の秘められた計画をゆだねられた管理者
”として
使命に”忠実であること”
自分に課していたのです

そして
そんな彼の生き方を見て
コリントの教会の人々がそれに習うように
心から願って手紙を書いているのでした

「そこであなたがたに勧めます
わたしにならう者となりなさい
テモテをそちらにつかわしたのは
このことのためです
彼はわたしの愛する子で
主において忠実な者であり
至るところのすべての教会でわたしが教えている通りに
キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方
あなたがたに思い起こさせることでしょう」(16−17節)


今のように旅行が簡単ではなかった時代ですから
パウロがコリントに来ることはもうないと
コリントの教会の高ぶった人たちは思っていたとのことですが
どんなに困難な事であっても
もしそれが神の御心であれば可能なのだと
パウロは述べています
このように
正しいことには必ず神の証しがあります
「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」(20節)
そこに神の力が働くかどうかで
その人の行いが正しいかどうかが分かるのです
ですから
高ぶっている人にどのようにどんな力があるのかを
コリントまで行って見せてもらおうではないかと
そして
その時には
鞭(むち)を持っていくか
あるいは愛と柔和な心で行くか
どちらがいいですか?とパウロは問うて
この章は終わっています

パウロはここまで
コリントの教会に起きている問題を
何とか収めたいと願って
教会管理者の心得と
キリストの教え(十字架の言葉)を
繰り返し伝えてきました

彼が語るのは常にキリストの福音であり
そこに彼の考えをさしはさむことはありません
人間は弱いので
自分にとって都合のいい考えを入れたくなるかもしれませんが
それでは信仰の道が
その人に利をもたらすものとして利用され
自分の豊かさを求める道へと
曲がっていくことになるからです

パウロは
キリストに仕える者として
特に教会管理者としての指導者がどうあるべきかを
テトスへの手紙に以下のように記しています

「監督は神から任命された管理者であるので
非難される点があってはならないのです
わがままでなく、すぐに怒らず
酒におぼれず、乱暴でなく
恥ずべき利益をむさぼらず
かえって、客を親切にもてなし
善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し
教えに適う信頼すべき言葉を
しっかり守る人でなければなりません
そうでないと
健全な教えに従って勧めたり
反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう」
(テトスへの手紙1章7‐9節)

ここは教会を管理する牧師からすると
当然だと思う一方で
完全に自分を制することができるかと言えば
なかなか厳しいものがあるとも思えます
それでも
神の教会を守っていく時には
使徒の時代と変わらない問題が今もあって
その問題と向き合い
正しく解決していくためには
キリストに結ばれたパウロの生き方に習って
正しいことは正しい
間違いは間違いとして
そこに私情や人の都合をはさまず
信仰を持って行動することが求められるのです

かつてこの教会にも
「神ではなく人を見る信仰」が蔓延していた時代があり
それが正されていくまでには
多くの戦いがあって
とても長い年月を要しました

この教会の初代牧師は目が見えなかったので
目の見える人の助けが必要でしたが
そこで頼りになると思われた人の中には
教会の中で権力を持つ人も現れてきたのです
それはやがて
純粋にキリストの福音を求める人の信仰の妨げとなり
教会の中では
”神ではなく人に遠慮する”
という構造ができていきました
そういうものは一度できると簡単には崩れません
それでも
問題をこのまま放置するのは
神の教会を守る者として忠実とは言えませんから
何とかして「人ではなく神を見る信仰」にと願い
潔く行動するところに神の助けが伴い
今は人に左右されない
平安な教会へと変わることができました

しかし
神ではなく人間に支配される
そのような問題を抱える教会は
実はかなりあるのではないかと思われます
というのも
問題を起こす人というのは
教会にとっては奉仕や献金と言った面で
助けになる人も多く
そこに損得勘定が働けば
正しく指導することも難しくなるからです

それでも
わたしたちはパウロにならい
神にあって正しいことは正しい
間違いは間違いとして
はっきり一線を引いて行かなくては
神の教会の管理者でありながら
結局は自分の利得を求めていることに
なってしまうのではないでしょうか
「管理者に要求されるのは
忠実であることです」

そして
忠実である時には必ず神の助けがあることが
管理者にとっては大きな希望です
パウロはそれを知っているからこそ
過酷な目に遭いながらも
それを嘆くことはあっても
それでも使徒としての使命に
忠実に生きることができたのです



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