今週のみことば


6月20日

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「現に聞くところによると
あなたがたの間にみだらな行いがあり
しかもそれは
異邦人の間にもないほどのみだらな行いで
ある人が父の妻をわがものとしているとのことです
それにもかかわらず
あなたがたは高ぶっているのか
むしろ悲しんで
こんなことをする者を自分たちの間から
除外すべきではなかったのですか」
(コリント人への第一の手紙5章1-2節)

5章は
不道徳な人々と
どのように付き合っていくべきなのか
救いにあずかったクリスチャンと
そうでない人と
双方の対応について述べています

まず冒頭から出て来る不道徳な人は
みだらな行いをする人ですが
これはコリントの教会の中で起きていることですから
世の中一般の人のことを言っているわけではありません
しかもこの不道徳な行いが横行している教会の人々が
高ぶっているというのです

このように
人の中にある「高ぶった思い=誇り」について
パウロはそれをパン種に例え
そういう思いがわずかであっても
心の中で大きく膨らんでいくことを憂いています

「あなたがたが誇っているのは、よくない
わずかなパン種が練り粉全体をふくらませることを
知らないのですか
いつも新しい練り粉のままでいられるように
古いパン種をきれいに取り除きなさい
現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです
キリストが、わたしたちの過越(すぎこし)の小羊として
屠(ほふ)られたからです」(6‐7節)


キリストが
”わたしたちの過越(すぎこし)の小羊として
屠(ほふ)られた”

つまり
わたしたち人類を救うために
十字架にかかって死んでくださったということは
本来クリスチャンは
パン種のない新しい粉の状態であるべきですが
残念ながら
自分の思いがパン種となって残り
いつの間にかそれがふくらんで
間違ったことをしていても気づかない
あるいは認めない
ということになってしまうのです

クリスチャンになった人が
自分を救ってくださった神=主イエスを誇るのは良いことです
しかし
自分は救われて特別な存在になったと
自分を誇るのはおかしなことですが
実際に
救いにあずかっていない人のことを見下して
”世の人と交際してはならない”という人もあり
これは
人の誇りが勘違いの元となっているのです

「わたしは以前に手紙で
みだらな者と交際してはいけないと書きましたが
その意味は
この世のみだらな者とか強欲な者
また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと
一切つきあってはならない
ということではありません
もし、そうだとしたら
あなたがたは
世の中から出て行かねばならないでしょう」(9‐10節)

救いにあずかるクリスチャンであろうがなかろうが
生きているのは同じ世の中です
そして、その世の中には色んな人がいて
キリストを知らない「世の人」で
不道徳な行いをする人もありますが
そういう人と一切つきあってはならないと
パウロは言っていません
というのも
世の中にそういう人はいくらでもいますから
それを避けたいなら
こちらが世の中から出て行くしかないからです
むしろ、つきあいを考えるべきは
クリスチャンでありながら不道徳な人々だと
実際に教会の中でみだらなことが起きていることをあげ
パウロは内部の人を裁くべきだと主張しています

「わたしが書いたのは
兄弟と呼ばれる人で
みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者
人の物を奪う者がいれば、つきあうな
そのような人とは一緒に食事もするな
ということだったのです」(11節)


本来クリスチャンは聖霊を受けることで
神の心を持つはずなのですが
自分の思いがパン種となって残る時
それがふくらんで
不道徳な行いへと発展してしまうことも少なくありません
そこに自分に対する誇りがあれば
なおのこと自分を省み
悔い改めることも難しいでしょう

「外部の人々を裁くことは
わたしの務めでしょうか
内部の人々をこそ
あなたがたは裁くべきではありませんか
外部の人々は神がお裁きになります
あなたがたの中から
悪い者を除き去りなさい」(12‐13節)


この世の中には色んな考えがあって
それに基づいて人は色んな行動をします
その中で
「神のもの」とされたクリスチャンにとって大切なのは
神に対して恥じないように生きること
世の中の人がどのような間違いをしても
それは正しく導くものがなく
迷いの中にあるのですから
仕方がないことです
しかし
クリスチャンはそういうわけにはいきません

わたしたちは
自分の努力や行いではなく
ただ神の愛によって救いにあずかった者です
その立場を超えて
自ら高ぶる思いを持つ時
それは
神の権威をないがしろにしているということ
つまり
神に喜ばれないことをしているのです

「イエスは別のたとえを持ち出して
彼らに言われた
『天の国はからし種に似ている
人がこれを取って畑にまけば
どんな種よりも小さいのに
成長するとどの野菜よりも大きくなり
空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる』」
(マタイによる福音書13章31‐32節)


「からし種」のような小さな種も
成長すれば大きな木になるように
小さな信仰が大きな幸せの元ともなれば
反対に
神に反する(喜ばれない)思いを持っていると
それが最初は小さくても
やがて大きくなって
災いの元ともなるでしょう

”あなたがたの中から
悪い者を除き去りなさい”

これは
教会の中にそういう人がいるのを放置してはならない
ということのみならず
各々が
自分自身の中に問いかけて行くべき課題です



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