今週のみことば


7月18日

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「わたしを批判する人たちには、こう弁明します
わたしたちには、食べたり
飲んだりする権利が全くないのですか
わたしたちには他の使徒たちや
主の兄弟たちや、ケファのように
信者である妻を連れて歩く権利がないのですか
あるいあは
わたしとバルナバだけには
生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという
権利がないのですか」
(コリント人への第一の手紙9章3-6節)

9章は
パウロを批判する人々に対する弁明で始まっています
1節にはまず
「わたしは自由な者ではないか
使徒ではないか
わたしたちの主イエスを見たではないか
あなたがたは主のために
わたしが働いて得た成果ではないか」

と記されていますが
コリントの教会の人々は
パウロから福音を伝えられたにもかかわらず
彼がいなくなると
その教会を任された人が思い上がり
パウロを「使徒(宣教者)」として尊敬せず
勝手な事を言っていたようです

そこでパウロは
改めて「使徒の権利」について具体的に記し
自分は何らやましいこともしていないし
むしろその権利を用いず
自分で働いて生活の糧を得てきたのだと主張します

「主は、福音を宣べ伝える人たちには
福音によって生活の資を得るようにと
指示されました
しかし、わたしはこの権利を
何一つ利用したことはありません」
(14‐15節)


ある日突然、主イエスに捕らえられ
キリストの迫害者から伝道者へと
変えられたパウロは
自分の意志で使徒になったわけではなく
その務めを強いられたわけです
だからこそ自分は
他の使徒たちのようには
使徒の権利を利用しない
そうすることがパウロの誇りでしたが
そんな真面目なパウロのことを
コリントの教会の人々は批判するのですから
何とも理不尽な話です

福音を宣べ伝えるにあたっては
他の使徒たちのように
”福音によって生活の資を得る”ことも
パウロのように
自分で仕事をしながら生活費を稼ぐのも
どれもみな自由です
ただパウロの場合
自分の行動が福音のさまたげになってはならない
との強い信念があり
教会の人々に誤解が生じないように
誰よりも気をつけて生活をしていたはずですが
どんなに気を使っていても
人はしばしば事実をねじ曲げ
平気で悪口を言います
自分の都合よく話を作り変える人がいれば
それによって不利な立場に立たされる人もある
人生はなかなか思うようにはいきません
それは
現在も変わりないことでしょう

そんな状況下で
情けない思いをしつつも
パウロは手紙を通し
人々に丁寧に説明をしていきます
キリストの福音をゆだねられた使徒であっても
普通の生活をする自由はあること
その一方で
「すべての人の奴隷になりました」(19節)
とも書いています
これは
できるだけたくさんの人に福音を受け入れてもらえるよう
ユダヤ人にはユダヤ人のように
律法に支配されている人には同じようにと
それぞれ相手の立場に合わせて
福音を語っていたことを示しています

「弱い人に対しては
弱い人のようになりました
弱い人を得るためです
すべての人に対してすべてのものになりました
何とかして何人かでも救うためです」(22節)


人にはそれぞれ今までもってきた生き方や思想があり
そこへキリストの福音を語られても
ましてやそれが自分を否定されるような物言いでは
なかなか受け入れられるものではありません
そこでパウロは
自分の面子のためではなく
相手のためを思い
自ら相手の心に寄り添いながら
福音を語っていったのです

こうして
実生活においても自分を節制しながら
福音伝道においても
常に己を捨てて励んできたパウロでも
教会の人々からの心無い攻撃がありました
本来なら
もっと敬意を向けられてもよさそうなものですが
人生は思うようにはいきません

それはわたしたちもみな同じです
さまざまな問題で心が疲れ
どうも思うようにいかないな、、、
これはあまりに理不尽だ、、、と
ため息をつきたくなることも多い世の中にあって
それでも
神を信じて
自分の置かれたところで
与えられた使命を果たしていく人には
神よりの平安があります
そして
信仰によって心が恵まれていくと
たとえ何が起きても
すべてを神にゆだねて冷静でいられる
目の前の問題は解決していなくても
希望を持って歩むことができれば
その人は本当の「恵まれた人」なのです

「あなたがたは知らないのですか
競技場で走る者は皆走るけれども
賞を受けるのは一人だけです
あなたがたも賞を得るように走りなさい
競技をする人は皆
すべてに節制します
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが
わたしたちは
朽ちない冠を得るために節制するのです
だから、わたしとしては
やみくもに走ったりしないし
空を打つような拳闘もしません
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます
それは、他の人々に宣教しておきながら
自分の方が失格者になってしまわないためです」
(24‐27節)


わたしたちの戦いは
誰かを追い抜いて一番になるような
自分の名誉のための戦いではなく
置かれたところで各々が
神に喜ばれる者となるように
(朽ちない冠を得るように)
自分の内面(心)と闘っていくこと
そして
わたしたちが自分の心と戦っていくには
ちょうど運動選手が日常生活を節制するような
絶え間のない訓練が必要なのです

それでも
神の前に自分の使命を果たしていくことは
ただ目標もなく走り回り
空中を打つような虚しいものではありません
ですから、パウロは
そこにどのような苦労があっても
使命に忠実に生きていました

立場は違っても
同じく「福音をゆだねられた者」として
わたしたちも
信仰のある歩みをしていきたい
今の世の中
人の心にはゆとりがなく、許しがありません
そんな生きにくい時代を
神の知恵と力
そして神にある心をもって
冷静に乗り越えていきたいのです

「神の御心に適った悲しみは
取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ
世の悲しみは死をもたらします」
(コリント人への第二の手紙7章10節)


神が良しとして与えられた悲しみは
その先に必ず希望がありますが
世の中の悲しみは人を絶望させます

天地創造の主である神は
すべての人のことを知り
信じる者を幸いへと導いてくださいますから
自分の人生を神にゆだね
神に立った歩みをして
様々な問題を乗り越えていくことができますように



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