今週のみことば


8月1日

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「わたしがキリストにならう者であるように
あなたがたもこのわたしにならう者となりなさい」
(コリント人への第一の手紙11章1節)

自分自身が「キリストにならう者」であるパウロは
コリントの教会の人々に対しても
自分のようになることを求めています
また
ペテロやヨハネと言った他の弟子たちも
「キリストにならう者」となることを
人々に伝えていきました

「あなたがたが召されたのはこのためです
というのは
キリストもあなたがたのために苦しみを受け
その足跡に続くようにと
模範を残されたからです」
(ペテロの第一の手紙2章21節)

「神の内にいつもいるという人は
イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」
(ヨハネの第一の手紙2章6節)


これはまず
主イエスご自身が
直接弟子たちに伝えたみことばによるもので
キリストを「頭(かしら)」として見習い
それを基本にして考え、行動していくことが
クリスチャンの生き方です

「疲れた者、重荷を負う者は
だれでもわたしのもとに来なさい
休ませてあげよう
わたしは柔和で謙遜な者だから
わたしの軛(くびき)を負い
わたしに学びなさい
そうすれば
あなたがたは安らぎを得られる
わたしの軛(くびき)は負いやすく
わたしの荷は軽いからである」
(マタイによる福音書11章28-30節)


さて
コリントの11章に戻ります
2節からは
「女のかぶりもの」の話が出てきて
そのような風習がない日本人には
クリスチャンの女性は何か面倒な立場にあり
これは男尊女卑ではないかと
誤解されかねないのですが
ここでも重要なポイントは
”キリストを「頭(かしら)」として見習う”
ということになります

「いずれにせよ、主においては
男なしに女はなく
女なしに男はありません
それは女が男から出たように
男も女から生まれ
またすべてのものが
神から出ているのです」
(コリント人への第一の手紙11章11-12節)


創世記2章によれば
初めに男(アダム)が造られ
アダムのあばら骨をとって
女(エバ)が造られました
この時、神は
「人が独りでいるのは良くない
彼に合う助ける者を造ろう」
と語り
女性を男性に隷属する者としてではなく
「助ける者」として造られたのです

つまり
キリスト教における男女の関係は
男性が女性を支配する男尊女卑ではなく
それぞれが異なる役割を持っているということ
そして
両者とも一番上には神がいて
”キリストを「頭(かしら)」として見習う”ことが
求められている
もしそのように心がけ行動できるなら
(キリストの心を心としていくなら)
お互いに相手を支配するようなことには
ならないはすです

11章の後半からは
「聖餐」の意味について記されています

「わたしがあなたがたに伝えたことは
わたし自身、主から受けたものです
すなわち、主イエスは
引き渡される夜、パンを取り
感謝の祈りをささげてそれを裂き
『これは、あなたがたのためのわたしの体である
わたしの記念としてこのように行いなさい』
と言われました
また、食事の後で、杯も同じようにして
『この杯は、わたしの血によって立てられる
新しい契約である
飲む度に、わたしの記念として
このように行いなさい』
と言われました
だから、あなたがたは
このパンを食べこの杯を飲むごとに
主が来られるときまで
主の死を告げ知らせるのです
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり
その杯を飲んだりする者は
主の体と血に対して
罪を犯すことになります
誰でも、自分をよく確かめたうえで
そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(23-28節)

聖餐を受けることは
単なる飲食の儀式ではありません
またそれらを食べたから
特別な力を得るというようなものでもなく
”わたしの記念としてこのように行いなさい”
と記されているように
主イエスの十字架上の死と
わたしたちに与えられている救いを
思い出す機会なのです

そして
「キリストにならう者」として
わたしたちが成長していくように
今の自分を省み
それぞれが置かれた場所で
各々に与えられた使命を全うし
どんな時も希望をもって神に従い
お互いの間に平和があるように
努めていきましょう



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