今週のみことば
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8月15日
「たとえ、人々の異言
天使たちの異言を語ろうとも
愛がなければ、わたしは騒がしいどら
やかましいシンバル
たとえ預言する賜物を持ち
あらゆる神秘と
あらゆる知識に通じていようとも
たとえ、山を動かすほどの
完全な信仰を持っていようとも
愛がなければ、無に等しい
全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも
愛がなければ、わたしに何の益もない」
(コリント人への第一の手紙13章1-3節)
祈りのスタイルには色々ありますが
当教会では
礼拝時等に「異言」の祈りをします
これは声を出す祈りなので
場所をわきまえなければ
ただ騒がしいだけの
迷惑なものとなるでしょう
例えば病室で祈る場合など
本人にとってはとても尊いことだと思っても
大きな声で祈れば
同室の人にとっては騒音なのです
わたしたちクリスチャンは
信仰の名のもとに
何をしてもいいわけではありません
むしろ、本当に信仰していれば
そこに必ず
「わきまえ」や周りへの「配慮」といった
心がけが必要となります
ところが
信仰熱心になるがあまり
こういった心がけを忘れる
あるいは
そんな配慮など必要がないと考える人もあり
そうなると
同じ祈りであっても
そこには神の心が欠如した
単なる自己アピールとなるでしょう
「神の心」は、すなわち「愛」です
どんなに信仰熱心で
”たとえ、山を動かすほどの
完全な信仰を持っていようとも”
そこに「愛」がなければ何をしても益はない
これは自分の心を満たそうとする
自己満足の信仰にすぎないからです
クリスチャンの信仰とは
いったい誰に対してするのでしょう?
答えは当然「神すなわち主イエス」ですが
愛のない信仰は
自分の心を満足させようとするだけの
神不在の、自己中心の信仰なのです
「愛」については
4節以降に具体的に記されています
「愛は忍耐強い
愛は情け深い
ねたまない
愛は自慢せず
高ぶらない
礼を失せず
自分の利益を求めず
いらだたず
恨みを抱かない
不義を喜ばず
真実を喜ぶ
すべてを忍び
すべてを信じ
すべてを望み
すべてに耐える
愛は決して滅びない
預言はすたれ、異言はやみ
知識はすたれよう
わたしたちの知識は一部分
預言も一部分だから
完全なものが来た時には
部分的なものは廃れよう」
(4-10節)
「愛」は神ご自身ですから
いつまでもなくなることはありません
しかし
神の言葉を伝える「預言」や「異言」「知識」は
”完全なものが来た時には”
すなわち、主イエスが
再びこの世に来られる(再臨)時には
もう必要なくなるものです
そもそも
わたしたちが神について知っていることは
ほんの一部にすぎず
それを完全に知るのは、ご再臨の時であり
そう思えば
わたしたちは実は何も知らず
何も誇るところもなく
ただ神の前に謙虚であることが
重要であると分かります
そして
改めて”誰を信仰しているのか”を考えた上で
愛である神への信仰によって
どんな時にも希望を抱き
わたしたち自身も
愛を持った歩みを心がけていきたいものです
「それゆえ、信仰と、希望と、愛
この三つは、いつまでも残る
その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)
なお、「愛」については
ヨハネの第一の手紙にも記されているので
以下に一部抜粋しておきます
「愛することのない者は神を知りません
神は愛だからです」(4章8節)
「わたしたちは
わたしたちに対する神の愛を知り
また信じています
神は愛です
愛にとどまる人は
神の内にとどまり
神もその人の内にとどまってくださいます」
(4章16節)
<目次