今週のみことば


8月22日

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「愛を追い求めなさい
霊的な賜物、特に預言するための賜物を
熱心に求めなさい
異言を語る者は、人に向かってではなく
神に向かって語っています
それはだれにも分かりません
彼は霊によって神秘を語っているのです
しかし、預言する者は
人に向かって語っているので
人を造り上げ、励まし、慰めます
異言を語る者が自分を造り上げるのに対して
預言する者は教会を造り上げます」
(コリント人への第一の手紙14章1-4節)

14章は「異言」と「預言」について記されています
まず「異言」ですが
この発祥は使徒行伝2章の聖霊降臨にあります

主イエスのご昇天から10日後
弟子たちが祈っていると
突然天から大きな音がして
炎のような舌が分かれて一人一人の上にとどまった
すると一同は聖霊に満たされ
聖霊が語らせるままに
”自分の知らない他の国の言葉”で
神を賛美し始めたのです
これが「異言」の祈です

このように
聖霊を受けたしるしとして「異言」を語ったとの記述から
当教会もハレルヤと神を賛美しながら
自分の意志によらず言葉が変化していく「異言」をもって
聖霊が与えられたと判断し
その異言の祈を礼拝の時などに用いています

また「異言」は
個人の祈だけでなく
「異言」によって人々に神の言葉を語る人もありますが
「異言」のままでは誰も意味が分からないので
この場合には”異言を説く人”が必要になります

一方、「預言」ですが
同じ「よげん」と読んでも
「予言」と「預言」では意味が全く違います

「予言」は
例えば天気予報のように
”未来のことを予測して伝えること”で
宗教的な意味は持ちません
これに対して
「預言」は
”神の言葉を預かって伝えること”
そして
この神の言葉によって
人が励まされたり
慰められたりすることに意味があるのです

「預言する者は
人に向かって語っているので
人を造り上げ、励まし、慰めます」


教会で個人個人が異言で祈る場合
その人は神に対して祈っているので
自分の心は励まされますが
それを見ている人にとっては
意味不明の言葉にすぎず
何か勇気づけられるわけでもありません
それどころか
何も知らない人が教会に来て
異言の祈を聞けば
「あなたがたのことを気が変だと言わないでしょうか」(23節)
とパウロも語っているとおりです

しかし
自分の分かる言語で語られる神の言葉である「預言」は
その人を励ます愛の言葉として
人の心に働きかけます
こうして
礼拝でのお説教で
あるいは信者同士の話の内にも
色々な人が聖霊に導かれて
人を慰め励ます「預言」を語ること
それによって人々が活かされ
教会全体が恵まれていくことを
わたしたちは求められているのではないでしょうか

「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して
預言する者は教会を造り上げます」(4節)


「預言」と聞くと
昔の預言者のことかと思い
それは自分には遠い話と思えてしまうかもしれませんが
1節にまず
「愛を追い求めなさい」
とあるように
「預言」は神の愛から出ているものですから
わたしたちにとっても身近なものなのです

ただ
「異言」にしろ「預言」にしろ
自分が勝手にのぼせ上り
わきまえのない(愛のない)行動をするのは
慎まなくてはなりません
こういう人が現れると教会が混乱します
実際にコリントの教会でも
そのような混乱があり
パウロが細かく説明をしなければならない
事態となっているようです

「自分は預言する者であるとか
霊の人であると思っている者がいれば
わたしがここに書いてきたことは
主の命令であると認めなさい
それを認めない者は
その人もまた認められないでしょう」(37節)


信仰を勘違いすると
自分が何か素晴らしい者になったように
思い上がる人も出てきます
自分勝手な自己満足の信仰感で
教会をかき乱すようなことがありませんように
また
教会の中が常に秩序正しく平和であるように
一人一人が神の愛を求めて
前進していきましょう

「わたしの兄弟たち
こういうわけですから
預言することを熱心に求めなさい
そして、異言を語ることを禁じてはなりません
しかし、すべてを適切に
秩序正しく行いなさい」(39-40節)



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