今週のみことば
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12月18日
「それだから
神の安息にはいるべき約束が
まだ存続しているにかかわらず
万一にも、はいりそこなう者が
あなたがたの中から出ることがないように
注意しようではないか
というのは、彼らと同じく
わたしたちにも
福音が伝えられているのである
しかし、その聞いた御言は
彼らには無益であった
それが、聞いた者たちに
信仰によって結びつけられなかったからである」
(ヘブル人への手紙4章1-2節)
「神の安息」とは
人間が
自分の努力によって得るものではなく
神を信頼することによって
得ることのできる平安です
この「神の安息」にあずかる約束
すなわち「キリストの福音」は
現在もずっと続いていますが
この福音に出会い
洗礼と聖霊による救いを受けたのに
心が神から離れると
肝心な「神の安息」から遠ざかってしまうので
パウロはそれを危惧しています
昔も今も
神さまがいるなら
願いをかなえてくれたらいいのに・・と
そう願う人が多いのは
自分の思いが第一になっているからで
実際に何が一番幸いなことかは
自分ではなく神が決められること
そして
それを受け入れることができる人が
神を信頼する信仰のある人なのです
キリストの福音は
「良き音信(おとずれ)」であり
すべての人にとって幸いな教えであっても
これを聞いても信じないなら
聞いた人にとって益はありません
そして
素晴らしい「神の証」の話も
そこに信仰を交えて聞かなければ
役に立つことはないのです
このように
クリスチャンが「神にある者」として生きて行く時
いつも問題になるのが
「自分の思い」との戦いです
人間はサタンに惑わされると心がかたくなになり
信仰に立つことができなくなります
そうなると
神の安息から遠ざかってしまうので
まずは自分の思いから離れて
何が正しいことなのかを
神の思いにゆだねてみる事が大切になります
天地創造の時
神はすべての業を完成させて
七日目に休まれました
そして
この「安息日」には
人は自分の業を休み神の安息にはいる
つまり、自分の思いから離れて
神への信仰によって安息を得ることとされました
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら
心をかたくなにしてはならない」(7節)
「今日」という日、すなわち
「安息日」は
神の言葉を聞いて安息を得る機会です
人間は弱いので
サタンの惑わしで不信仰に陥らないように
「信仰の友」による支えが必要になりますが
わたしたちにとって
最高の「信仰の友」は神ご自身であり
神の変わることのない生きた言葉によって
正しく導かれていくことが
安息を得ることへの道なのです
「したがって、わたしたちは
この安息にはいるように
努力しようではないか
そうでないと
同じような不従順の悪例にならって
落ちて行く者が出るかもしれない」(11節)
さらに12節からは
神の安息にあずかるために必要な
「神の言葉」が持つ力について
具体的に記されています
「というのは、神の言葉は生きていて
力があり
もろ刃のつるぎよりも鋭くて
精神と霊魂と、関節と骨髄とを
切り離すまでに刺し通して
心の思いと志とを
見分けることができる」(12節)
つまり神の言葉を前にしては
人はすべて心の中まで見られており
何も隠せるものはありません
だからこそわたしたちは
この神を心から信頼して歩むのです
そして
全能の神である主イエスは
人間として生まれ
「罪は犯されなかったが
すべてのことについて
わたしたちと同じように試練にあわれた」
(15節)
ですから
わたしたちの弱さに同情できない方ではなく
常にあわれみをもって弱い者を助け
悩める者を正しい道へと
導いてくださいますから
わたしたちは
どんな厳しい時も
主イエスへの信仰を忘れないで
その恵みと助けにあずかるべく
この福音の道を歩んでいくのです
「だから、わたしたちは
あわれみを受け
また、恵みにあずかって
時機を得た助けを受けるために
はばかることなく
恵みの御座に近づこうではないか」(16節)
「あなたがたが新たに生まれたのは
朽ちる種からではなく
朽ちない種から
すなわち
神の変わることのない
生ける御言によったのである
『人はみな草のごとく
その栄華はみな草の花に似ている
草は枯れ
花は散る
しかし、主の言葉はとこしえに残る』」
(ペテロの第一の手紙1章23‐25節)
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