今週のみことば
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2月6日
「その後、14年たってから
わたしはバルナバと一緒に
再びエルサレムに上りました
その際、テトスも連れて行きました」
(ガラテヤ人への手紙2章1節)
神の啓示によって
エルサレムに上ったパウロは
自分が異邦人に伝えている福音について
自分は無駄に走っているのではないか?
との疑問を
教会のおもだった人々(ペテロたち)に相談しました
その中で
パウロや同行した異邦人のテトスに対して
誰も割礼を受けることを強要しなかったことから
ペテロたちも同じ福音を伝えていることを知ります
ただ
ペテロたちは
割礼を受けたユダヤ人に対して
福音を伝える役目をになっており
パウロは
割礼を受けていない異邦人に対して
福音を伝えるように
どちらも同じ神である主イエスから
ゆだねられたのでした
こうして
割礼を受け
モーセの律法の実行を強いるユダヤ教から
キリストを信じる信仰によって救われるキリスト教へと
パウロもペテロも同じ福音を伝えていたわけですが
ここでパウロはペテロの過ちを指摘しています
ペテロはユダヤ人ですが
イエスの福音に立っているので
ユダヤの律法を強いられる生活はしておらず
割礼を受けていない異邦人とも食事をしていました
ところが
ユダヤ教の人たちが来ると
「割礼を受けている者たちを恐れてしりごみし」(12節)
その場から離れてしまいました
そして他のユダヤ人やバルナバまでもが
同じ行動をとってしまうのです
そこでパウロは
ペテロに向かって言いました
「あなたはユダヤ人でありながら
ユダヤ人らしい生き方をしないで
異邦人のように生活しているというのに
どうして異邦人に
ユダヤ人のように生活することを
強要するのですか」(14節)
このペテロたちの行動には
人間の弱さが現れています
そこでパウロは
人は律法の実行ではなく
イエスを信じる信仰によって救われることを
15節から改めて語り始めます
「わたしたちは
生まれながらのユダヤ人であって
異邦人のような罪人ではありません
けれども、人は律法の実行ではなく
ただイエス・キリストへの信仰によって
義とされると知って
わたしたちもキリスト・イエスを信じました
これは、律法の実行ではなく
キリストへの信仰によって
義としていただくためでした
なぜなら、律法の実行によっては
だれ一人として義とされないからです」
((15‐16節)
こうしてパウロはイエスを信じ
キリストの十字架の血にあずかる
洗礼(バプテスマ)を受けて義とされ(救われ)
キリストと共に生きるものとなりました
その一方で
「律法に対しては律法によって死んだのです」
(19節)
そして
救いを受けた今は
「キリストがわたしの内に生きておられるのです」
(20節)
ですから
せっかく神ご自身が人の肉体をもって生まれ
十字架にかかっって血を流すことで
万民に救いの道が開かれたというのに
それでもまだ律法の行いで義とされるというなら
キリストの死は
無駄なものになってしまうではないかと
パウロははっきり述べています
「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば
それこそ、キリストの死は
無意味になってしまいます」(21節)
「義とされる」とは
神によって正しいとされる事
そして
「神の義」は
神によって正しいとされるための
”人を救う神の働き”を表しています
そのためにわたしたちには
洗礼と聖霊のバプテスマがあり
救いを求める人は誰でも受けることができ
神と共に生きる幸いを与えられるのです
「ところが今や、律法とは関係なく
しかも律法と預言者によって立証されて
神の義が示されました
すなわち、イエス・キリストを信じることにより
信じる者すべてに与えられる神の義です
そこには何らの差別もありません」
(ローマ人への手紙3章21‐22節)
「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によって
キリストと共に葬られ
その死にあずかるものとなりました
それはキリストが御父の栄光によって
死者の中から復活させられたように
わたしたちも新しい命に生きるためなのです」
(ローマ人への手紙6章4節)
「ところで、兄弟たち
あなたがたも、キリストの体に結ばれて
律法に対しては死んだ者となっています
それは、あなたがたが、他の方
つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり
こうして、わたしたちが神に対して
実を結ぶようになるためなのです」
(ローマ人への手紙7章4節)
パウロが何度も言っているように
イエスを信じて救われる信仰は
律法による信仰の対極にありますが
イエスの救いを受けている者であっても
律法を守る信仰を捨てられないのは
現在の教会にもあることでしょう
というのも
同じイエスの福音を伝える教会でも
そこには様々な人の思いや考えが働き
いつの間にか新しい律法が作られ
本来あるべき自由な信仰から
「〜しなくてはならない」との律法を守る信仰へと
形が変わっていくこともあるからです
こうして福音は変えられていき
その思想は
偶像のように人の心を支配しますから
わたしたちはそのような信仰に陥らないように
自らを省みることも大切でしょう
わたしたちの信仰の目的は
一言でいえば
”人生における平安な歩み”
だと思いますが
その一歩は
まず救われることから始まります
この不安に満ちた世の中で
わたしたちは常に不安と隣り合わせ・・・
それでも
神と共に生きる者には希望がある
それがこの福音を信じる者の強みなのです
「わたしは福音を恥としない
福音は、ユダヤ人をはじめ
ギリシア人にも
信じる者すべてに救いをもたらす
神の力だからです」
(ローマ人への手紙1章16節)
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