今週のみことば


2月13日

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「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち
だれがあなたがたを惑わしたのか
目の前に、イエスキリストが
十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか
あなたがたに一つだけ確かめたい
あなたがたが”霊”を受けたのは
律法を行ったからですか
それとも、福音を聞いて信じたからですか
あなたがたは、それほど物分かりが悪く
”霊”によって始めたのに
肉によって仕上げようとするのですか」
(ガラテヤ人への手紙3章1-3節)


イエスの福音を信じることにより
洗礼と聖霊を受けて救われたはずのガラテヤ人ですが
いつまでも「律法の行いによる救い」の教えに惑わされ
パウロの語ることを理解していない様子に
彼は非常に失望しています

「アブラハムは神を信じた
それは彼の義と認められた」(6節)

「信仰によって生きる人々こそ
アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節


アブラハムの時代には
まだ今のようなイエスの名による救いはありませんでしたが
「あなたがたのゆえに異邦人は皆祝福される」
との福音がアブラハムに予告され
わたしたち異邦人にも
主イエスを信じる信仰によって救われる道が開かれました

このように
律法の行いではなく
信仰によって生きることにより
わたしたちも「アブラハムの子」と称され
祝福の約束をされています

ところが
信仰ではなく
なお律法の実行に頼る人々は
律法の書に書かれているすべてのことを
絶えず守らなくてはならず
それができる人は一人もいないため
結果的に「呪われている」状態になっているのです

例えば
モーセの十戒にある『父母を敬え』という律法についても
これはわたしたちにとっても重要な事ではありますが
どんな過酷な状況下でも常に親を敬うことができるほど
人間は完全ではありません
どんなに頑張っていても
心の中で親に対して嫌な思いを抱いただけで
もう律法を守らなかったことになるなら
しかも律法はモーセの十戒のみならず
様々な道徳律や食物規範もあるのですから
だれがこれらをすべて完璧に守れるでしょうか

「律法によってはだれも
神の御前で義とされないことは明らかです
なぜなら
『正しい者は信仰によって生きる』からです
律法は、信仰をよりどころとしていません
『律法の定めを果たす者は
その定めによって生きる』のです」(11‐12節)


律法は
それを聞いて守るだけのもので
特に考えることもなくただ行動するものです
ですから
信仰の世界に
”〜すれば祝される”
”〜すれば呪われる”
といった律法の行いを要求すると
人間にとっては分かりやすく
受け入れやすい傾向にありますが
これは本当の信仰に基づいたものではありません
なぜなら
律法は信仰をよりどころとしていないからです

「『この律法の言葉を守り行わない者は呪われる』
民は皆、『アーメン』と言わねばならない」
(申命記27章28節)


律法の言葉を聞いたイスラエルの民は
ひたすら「アーメン(そのとおりです)」を繰り返していますが
そこに信仰は関係なく
ただ規則としての律法を受け入れているにすぎません

では、「信仰」とは何でしょうか
どうすることが信仰なのか
それは律法ほど分かりやすいものではなく
各々が信じて従っていくことで
分かってくるものです

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し
見えない事実を確認することです
昔の人たちは
この信仰のゆえに神に認められました」
(ヘブル人への手紙11章1‐2節)


わたしたちは様々な問題を抱えて神に祈ります
その時、切に願うのは神の助け
問題がこの先どういう形になるか分からなくても
神の助けが必ずあると信じ
まだ見ていない未来に希望を見出すこと
それが信仰です
そして昔の人々はこの信仰によって
神に義とされました

このように
「律法に生きる人」と「信仰に生きる人」の違いは明らかで
クリスチャンは当然「信仰に生きる人」のはずですが
その信仰生活が
ただ形にとらわれたものになる可能性もあります

「教会(礼拝)へ行く」という行為についても
心から神を求めて行くのか
あるいは、決まり事だから行くのでしょうか
後者は
ただ礼拝時間を教会で過ごすことが重要で
そこで何かを教えられることは
二の次になっているかもしれません
そして
教会へ行ったのだから祝されるはず・・・
では、行かなかったら呪われる・・・?!と不安になり
せっかく、この「恵みの時代」にあって
クリスチャンは
自分では何もしていないのに
神の愛によって救われ
日々、神の恵みによって活かされていることも
律法に基づく教会生活では
理解できないのではないでしょうか

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって
わたしたちを律法の呪いから贖(あがな)い出してくださいました
『木にかけられた者は皆呪われている』と
書いてあるからです
それは、アブラハムに与えられた祝福が
キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり
また、わたしたちが
約束された”霊”を信仰によって受けるためでした」
(ガラテヤ人への手紙3章13‐14節)


主イエスが自ら呪いとなって十字架にかかり
わたしたち異邦人にも救いが及ぶようにしてくださった事
そして、もはやわたしたちは
律法による呪いから解放されていることを知り
「信仰に生きる人」としての歩みを
聖書を通して教えられていくことが大切です

次回、3章後半へ続きます


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