今週のみことば


2月27日

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「ところで、あなたがたはかつて
神を知らずに
もともと神でない神々に奴隷として仕えていました
しかし、今は知っている
いや、むしろ神から知られているのに
なぜ、あの無力で頼りにならない
支配する諸霊の下に逆戻りし
もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか
あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています
あなたがたのために苦労したのは
無駄になったのではなかったかと
あなたがたのことが心配です」
(ガラテヤ人への手紙4章8‐11節)


3章では
洗礼を受けてキリストに結ばれたクリスチャンは
アブラハムの子孫であり
”祝福の約束の相続人”であることが記されていました

そして4章に入ると以下のように続きます

相続人も未成年である間は
父の定めた期日まで後見人の監督下にいるように
祝福の相続人になる前のクリスチャンは
”世を支配する諸霊”に奴隷として仕えていました(3節)
しかし、時が満ちると
キリストが生まれ
救いがもたらされたことにより
奴隷ではなく、神の子となり
神によって立てられた相続人になったのです(7節)

こうして
今はクリスチャンになっているわたしたちも
かつては神を知らず
”世を支配する諸霊”すなわち”神ではない神々”に
奴隷として仕えていました
この”世を支配する諸霊”は
文語訳では”世の小学”と訳されています
これは世の中にある人の作った教え、思想であり
”あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています”
とあるように
風習やしきたり、縁起などに
多くの人は捕らわれて生活しています
これを”奴隷として仕えている”と表現し
世の中の様々な価値観の中でほんろうされることの虚しさと
そこから救われることの素晴らしさをパウロは説きつつ
救われて自由になったはずなのに
現実には
人々が再び奴隷に戻ろうとしていることに
大いに失望しているのです

このように
わたしたちは
クリスチャンになった今も
さまざまな思想の奴隷となる恐れがあります

例えば
「家柄」や「名誉」「学歴」「お金」などの奴隷になり
神を忘れ
そこに希望を見いだそうとしているかもしれません

また
「男性は(女性は)こうあるべき」といった
昔からの古い思想に捕らわれている人には
思いやりや優しさといったキリストの心が欠けており
それが人々に生き難さをもたらしています

3章においてパウロは
キリストに結ばれた者は
人種も身分も性別も関係なく
みなキリストにおいて一つだから
神の祝福の相続人だと教えていても
せっかくの自由を手放して
また世の思想の奴隷に戻ろうとする弱さが
人間にはあるのです

かつてパウロによって福音を伝えられた人の中には
パウロを神の使いのように受け入れ
目の悪いパウロのために
自分の目を差し出したいと思うような人もいました(15節)
ところが
その熱心な思いをじゃまする者が現れて
彼らは惑わされてしまった
本当に残念な事ですが
それは今も同様に起こることです

21節以降には
アブラハムの二人の息子を例にあげ
女奴隷(ハガル)の子(イシマエル)と
自由な女(サラ)の子(イサク)とでは
全く立場が違うこと
そして
クリスチャンは
イサクのように「約束の子」であることを説明しています

「要するに、兄弟たち
わたしたちは
女奴隷の子ではなく
自由な身の女から生まれた子どもなのです」(31節)


繰り返しになりますが
救われて「約束の子」となった者は
”神ではない神々”の奴隷になってはいけません
”神ではない神々”とは偶像であり
偶像は単に目に見える像を指すのではなく
人間の作った思想や価値観も
人を惑わす偶像になりますから
わたしたちは一体
日々誰の言葉に耳を傾け
何を気にして生きているのか
常に真実を見きわめることができるかどうか
省みる必要があるでしょう

「約束の子」は神の祝福の相続人です
人生には常に問題があり
戦いの連続ですが
神の知恵と力とによって
すべての戦いに勝利するものを与えられ
神にある者は必ず生かされる
これこそが神の相続人の特権なのです


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