今週のみことば

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3月6日

「律法によって義とされようとするなら
あなたがたはだれであろうと
キリストとは縁もゆかりもない者とされ
いただいた恵みも失います
わたしたちは
義とされた者の希望が実現することを
”霊”により、信仰に基づいて
切に待ち望んでいるのです
キリスト・イエスに結ばれていれば
割礼の有無は問題ではなく
愛の実践を伴う信仰こそ大切です」
(ガラテヤ人への手紙5章4-6節)


洗礼を受けてキリストに結ばれた者は
神の約束の子として
祝福を継ぐ者とされました
ところが
その教えに反して
割礼=律法を行わなければ義とされないと
ガラテヤの人々は惑わされていたため
5章でパウロは
「律法に従う信仰」と
「聖霊の導きに従う信仰」の違いを説いています

洗礼を受けてクリスチャンになる前
まだ神を知らない時には
わたしたちは世の中の価値観に従い
様々な思想(律法)に支配され
自由を持たない奴隷になっていました
そして
キリストと出会い、救いを受け
律法から解放されて自由になり
今度は新たにキリストにある者としての
平安な生き方へと導かれるはずが
信仰をじゃまする存在が出てきて
(それは外部からのみならず
自分の内側からも出て来るものです)
その結果
聖霊に導かれる道から離れ
また再び律法に戻って支配されるという過ちは
誰しも無縁ではありません

実際にそのような事が起きている
ガラテヤの教会に対し
パウロは
せっかくキリストによって
自由が与えられたのだから
二度と律法の奴隷に戻ってはいけない事(1節)
さらに
もし、なおも律法によって救われようとするなら
「キリストとは縁もゆかりもない者とされ
いただいた恵みも失います」(4節)

と述べています

律法の実践を重要視するのであれば
律法全体を行わなくてはなりませんが
人間にはそれは不可能です
だからこそキリストの救いがあって
律法の行い(割礼の有無)ではなく
「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(6節)

「兄弟たち
あなたがたは
自由を得るために召し出されたのです
ただ、この自由を
肉に罪を犯させる機会とせずに
愛によって互いに仕えなさい
律法全体は
『隣人を自分のように愛しなさい』
という一句によって全うされるからです」
(13‐14節)


「律法に従う信仰」から離れ
キリストの救いによって自由を得たクリスチャンは
「聖霊の導きに従う信仰」へと
方向転換をすることになりました
聖霊、すなわち神の霊は愛であり
クリスチャンは愛に導かれていくわけです

そして
この聖霊の導きによって歩む時には
人は肉の欲望から距離を置くことができる
救いを受けてもなお
人間の心には「肉の業(思い)」が残っており
その思いに支配されそうになることはありますが
「聖霊の結ぶ実」である愛によって
正しい道へ導かれるからです

「肉の業は明らかです
それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝
魔術、敵意、争い、そねみ、怒り
利己心、不和、仲間争い、ねたみ
泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」
(19‐21節)

「これに対して
霊の結ぶ実は愛であり
喜び、平和、寛容、親切、善意
誠実、柔和、節制です
これらを禁じる掟はありません」
(22‐23節)


人の心は弱く
せっかく正しい信仰に導かれても
サタンの惑わしにあうと
また過去の自分に戻っていき
神の道から離れてしまうこともあります

心の中にわずかな不信があれば
その思いがパン種となって
粉全体をふくらませること思うと
信仰から離れ
再び肉の思いに支配されていくのは
残念ながら
とても容易いことなのでしょう

「キリスト・イエスのものとなった人たちは
肉を欲情や欲望もろとも
十字架につけてしまったのです
わたしたちは霊の導きに従って生きているなら
霊の導きに従ってまた前進しましょう
互いに挑みあったり
ねたみ合ったりするのはやめましょう」
(25‐26節)


15節にも
「だが、互いにかみ合い
共食いしているのなら
互いに滅ぼされないように注意しなさい」

と記されているように
「ねたみ」や「争い」といった「肉の業」は
常に人の心を支配し翻弄します
そのため
教会の中でも様々なトラブルが起こり
それは
信仰のつまづきにもつながりかねません

こうして
キリストの愛によって救われながらも
また惑わしに陥り、昔の状態に戻ってしまう
”堂々巡りの信仰”になりませんように
聖霊に導かれるとはどういうことなのかを
心に留めていきたいものです


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