今週のみことば


3月13日

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「兄弟たち、万一だれかが不注意にも
何かの罪に陥ったなら
”霊”に導かれて生きているあなたがたは
そういう人を柔和な心で
正しい道に立ち帰らせなさい
あなた自身も誘惑されないように
自分に気をつけなさい
互いに重荷を負いなさい
そのようにしてこそ
キリストの律法を全うすることになるのです」
(ガラテヤ人への手紙6章1-2節)


人間は誰しも「弱さ」を抱えて生きているので
ふと何らかの過ちを犯してしまうことがあります
人の失敗を見た時には
それをののしる前に
柔和な心で正しい道に立ち帰るように導く
それが”聖霊に導かれている人”の生き方です

失敗した人に対して
「あの人は祝福を失った」などとあざ笑う前に
自分もそうならないようにと自戒し
お互いに重荷を負う(=助け合い)
お互いが改め
みんなが良くなるように努力する
そうすることが
「キリストの律法」を全うすることになるのです

では
「キリストの律法」とは何でしょうか
マタイによる福音書22章37‐40節には
以下のように記されています

「イエスは言われた
『心を尽くし、精神を尽くし
思いを尽くして
あなたの神である主を愛しなさい』
これが最も重要な第一の掟である
第二も
これと同じように重要である
『隣人を自分のように愛しなさい』
律法全体と預言者は
この二つの掟に基づいている」

「キリストの律法」は
この第一、第二の掟からできていて
この律法こそが
すべての律法(預言者の教え)の
基礎になっています

「実際には何者でもないのに
自分をひとかどの者だと思う人がいるなら
その人は自分自身をあざむいています
各自で、自分の行いを吟味してみなさい
そうすれば
自分に対してだけは誇れるとしても
他人に対しては誇ることができないでしょう」

(ガラテヤ人への手紙6章3-4節)

自分が何か特別な人間だと思い上がっている人は
自分自身のことが分かっていません
そのため
人を批判することに熱心になり
失敗した人を簡単にののしるわけですが
そこに愛(神の心)があるなら
その人が良くなることを考えて行動すべきです

そもそも
人間は豊かになるほど思い上がる傾向があり
自分はお金持ちになったから
何か特別な祝福を受けていると
信仰的な勘違いをする人も出てきます
その場合
豊かではない人に対し
「祝福のない人」と見下すような
およそキリストの福音とはかけはなれた思想に捕らわれ
自分がその間違った思想に毒されていることに気づかないまま
人を裁いていくことになるのです

しかし、そういう自分は一体何者なのでしょう
そこに「弱さ」はないのでしょうか
いいえ
人は誰でも弱さがあり、過ちもあります
それを思えば
他人に対して誇ることは何もなく
ただ誇るべきはキリストのみであると
まず自分を省みる必要があり
更には
そういう自分の行いから何が出て来るのか
まいた種は刈り取らなくてはならないと
パウロは言及しています

「思い違いをしてはいけません
神は、人から侮られることはありません
人は、自分の蒔いたものを
また刈り取ることになるのです
自分の肉にまく者は
肉から滅びを刈り取り
霊にまく者は
霊から永遠の命を刈り取ります
たゆまず善を行いましょう
飽きずに励んでいれば
時が来て、実を刈り取ることになります
ですから、今、時のある間に
すべての人に対して
特に信仰によって家族になった人々に対して
善を行いましょう」
(7‐10節)


外見上、信仰熱心な人々が
実は心の中では神をあがめるよりも
自分が人からどう思われるかを気にしている
つまり
いかにもして自分自身を誇りたい
そんな空しい信仰感を持っている人々が
教会の中でその間違った思想をまく時
教会の中は混乱します
実際にそれで混乱しているガラテヤの教会に
パウロは懸命に手紙を書きました

パウロ自身は
人間的には誇れるものをたくさん持った人でしたが
「このわたしには
わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに
誇るものが決してあってはなりません」(14節)

と述べています
社会的にどんな立場の人であっても
イエスの名による救いを受け
聖霊をいただいているクリスチャンは
もはや自分が生きているのではなく
キリストが自分の中で生きているからです

「割礼の有無は問題ではなく
大切なのは、新しく創造されることです」(15節)


今はもう古い律法に左右されることはなく
人は誰でも
キリストの救いを受けることができるようになりました
そして、そこからは
「キリストの律法」を心に留めて
新しい自分に変わっていく一歩を踏み出します

「キリストの律法」とは
神を愛し
自分を愛し
自分のように隣人を愛すること
「このような原理に従って生きていく人の上に
つまり、神のイスラエルの上に
平和と憐れみがあるように」(18節)


愛を基とした信仰感を持つ
平和で穏やかな
恵まれた人々の集まりの教会として
成長することを願いつつ
ガラテヤ人への手紙は終わっています


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