今週のみことば


3月27日

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「さて、あなたがたは、以前は
自分の過ちと罪のために死んでいたのです
この世を支配する者
かの空中に勢力を持つ者
すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い
過ちと罪を犯して歩んでいました
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて
以前は肉の欲望のおもむくままに生活し
肉や心の欲するままに行動していたのであり
他の人々と同じように
生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」
(エペソ人への手紙2章1-3節)


「空中に勢力を持つ者」とは
神の許しのうちにそのような立場にあるサタンのことです
そして
神を知らないままで生活していたわたしたちは
サタンに心を支配され
人間の持つ”肉の弱さ”によって罪を犯し
神の怒りを受ける存在となっていました

”肉の弱さ(肉の業)”については
ガラテヤ人への手紙5章19節以降に
「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術
敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和
仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類のもの」

と記されているように
残念ながら人間はこれらの弱さと
完全に無縁の人はいません
そのため罪と無縁の人もいないのです

「しかし、憐れみ豊かな神は
わたしたちをこの上なく愛してくださり
その愛によって
罪のために死んでいたわたしたちを
キリストと共に生かし
(あなたがたの救われたのは恵みによるのです)
キリスト・イエスによって共に復活させ
共に天の王座につかせてくださいました」(4‐6節)


こうして人間は誰でも
洗礼と聖霊とによる救いを受けて
キリストと共に生きる者となることができるようになりました
この救いは神の恵みによるものであり
律法を守ったからでもなければ
何か立派な行いによるものでもありません

「事実、あなたがたは、恵みにより
信仰によって救われました
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です
行いによるのではありません
それは誰も誇ることがないためなのです」(8-9節)


このように
わたしたちが救われるのは
神の一方的な恵みによるものですから
救いを受けるために修行も努力も必要なく
ただ信じて受け入れることが重要なわけです
もし救いに何らかの修行が必要なら
人は自分のがんばりを誇るようになるかもしれない
それも人間のもつ弱さの表れでしょうが
誰も神以外を誇ってはならないのです

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり
しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために
キリスト・イエスにおいて造られたからです
わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(10節)


「善い業」とは
神の心(愛)から自然に出る行いであり
人に良く見られたいためにするような
偽善の行いではありません
また、自らの意志で無理な善行をしようとしても
やがて行き詰ってしまうでしょう

また、人間の心は弱く
救われてもなお「肉の思い」に惑わされ
信仰が揺らぐこともあります
せっかく救われて神の平和の中にいながら
他の人と比べて自分がたくさん祝福をもらおうと
そこに競争を持ち込んむ人もあり
周囲を巻き込んでトラブルも起こります

この世にあって生きる限り
わたしたちの人生には苦労も多く
様々な場面で心も揺らぎがちではありますが
日々の戦いの中で神を思い出し
神と共に歩むという思いで祈っていく時に
その信仰の祈りは
わたしたちの心を守り
正しい道へと導いてくれるのです

「あなたがたは、終わりの時に現されるように
準備されている救いを受けるために
神の力により、信仰によって守られています」
(ペテロの第一の手紙1章5節)

「どんなことでも思いわずらうのはやめなさい
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ
求めているものを神に打ち明けなさい
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう」
(ピリピ人への手紙4章6‐7節)


エペソ人への手紙2章の後半は
かつては神を知らなかった異邦人が
キリストの血によって救われ
神の民となることができるようになり
割礼のある者(律法を守るユダヤ人)も
割礼のない者(異邦人)も
両者が共に神の家族となり
神の建築物として成長していくことが
記されています

「また、そのころは、キリストとかかわりなく
イスラエルの民に属さず
約束を含む契約と関係なく
この世の中で希望を持たず
神を知らずに生きていました
しかし、あなたがたは
以前は遠く離れていたが
今や、キリスト・イエスにおいて
キリストの血によって近い者となったのです」
(12‐13節)


こうして
すべての民は何人であっても
キリストにあってみな一つの霊に結ばれ
聖なる民となる救いの道が開かれました
そして
使徒と預言者の教え土台の上に
キリスト・イエスを「かなめ石」として
自分自身が聖なる神殿となるように
信仰生活をしていきます

その神殿は
華やかなものではないかもしれませんが
各々が置かれたところで神の働きを体験し
助けられ、感謝に感じ
喜びが与えられる時
その人はそこで天国を味わうという
素晴らしい体験をしています
これは神の恵みによるものであり
人間的な修行によるものではありません

このように
主にある喜びを体験することで
人は心を強められ
感謝に感じて
いよいよ神を深く知ることができるのです
そして
その神にある平安な姿は
神の証人として
神を知らない人に希望を与えるものとなるでしょう

「キリストにおいて
この建物全体は組み合わされて成長し
主における聖なる神殿となります
キリストにおいて
あなたがたも共に建てられ
霊の働きによって神の住まいとなるのです」(21‐22節)


信仰の世界は決して堅苦しいものではなく
そこには律法もなく
あるのは神の心(愛)です
修行ではない恵みの信仰生活を知り
神にある喜びと楽しみを見いだし
感謝に感じて歩んでいくことができますように



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