今週のみことば


4月10日

(スマートフォン用ページはこちら


「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしは
あなたがたに勧めます
神から招かれたのですから
その招きにふさわしく歩み
一切高ぶることなく
柔和で、寛容な心を持ちなさい
愛をもって互いに忍耐し
平和のきずなで結ばれて
霊による一致を保つように努めなさい
体は一つ、霊は一つです
それは、あなたがたが
一つの希望にあずかるようにと
招かれているのと同じです
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ
すべてのものの父である神は唯一であって
すべてのものの上にあり
すべてのものを通して働き
すべてのものの内におられます」
(エペソ人への手紙4章1-6節)


イエスの名による救いを受けて
キリストに結ばれたクリスチャンは
神から招かれてそのようになったのですから
まだ神を知らなかった時代の古い生き方から離れて
情欲に惑わされず
人の言葉に右往左往せず
神にある愛を基本として
自分もそこに近づいていくように
新しい生き方を学んでいく必要があります

そして
この新しい生き方の基本は
すべて主イエスによって示されており
わたしたちはその模範に従って
神の心を自分の心として歩むべく
聖霊による考え方の一致を
聖書を通して教えられています

「わたしがあなたがたにしたとおりに
あなたがたもするようにと
模範を示したのである」
(ヨハネによる福音書13章15節)


ここは「洗足式」についての記述ですが
人が救われるためには何をしなくてはならないか
そして救われた人は
どのような考え方で生きていくべきか
そのような大切なことは
神が人となられた主イエスのご生涯の中で
多くの模範が示されており
それらはイエスご自身の言葉で語られているわけですから
そこに人の勝手な考えが入る余地はなく
クリスチャンは常に
”聖書は何と言っているか?”
という視点で
物事の正しさを知ることが重要なわけです

”主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ”
ここに人の考えが入ると
これらは一つではなくなり
”すべてのものの父である神は唯一”
と記されているにもかかわらず
キリスト教界には異なる教理神学があります

パウロが伝道していた時代からある
”イエス・キリストとはどういう方なのか?”
という人々の疑問についても
人の作った諸説によって
今も惑わされている状態ですから
わたしたちは人の言葉ではなく
聖書の言葉を頼りにしていかなくてはなりません

エペソ人への手紙4章9節では
イエスのご昇天について語られ
元はと言えば
”天から降りて来られた方”であることに言及しています
そして
「この”降りて来られた方”が
すべてのものを満たすために
もろもろの天よりも更に高く上られたのです」(10節)


6節には
「すべてのものの父である神は唯一」
とあるように
唯一の神だけが
もろもろの天より更に高い所に昇り
すべてのものを満たすことができる
つまり
主イエス=唯一の神であり
もしそうでないなら
わたしたちクリスチャンは
神より格下の存在を信仰していることに
なるのではないでしょうか?

「さて、わたしたちには
もろもろの天を通過された偉大な大祭司
神の子イエスが与えられているのですから
わたしたちの公に言い表している信仰を
しっかりと保とうではありませんか」
(ヘブル人への手紙4章14節)


「偉大な大祭司」「神の子」そして
「救い主」「人の子」など
主イエスを表す呼称は色々ありますが
すべては神である主イエスを表すもので
それを信じない人には受け入れがたいものであっても
(そのために使徒たちは迫害されました)
クリスチャンは
神の言葉に従うべく
聖書に記されたことを受け入れ
神がなさることがたとえ不都合と思えても
自分の理想とは違っていても
それが一番幸いな道なのだと信じること
これが信仰です

「この大祭司は
わたしたちの弱さに同情できない方ではなく
罪を犯されなかったが
あらゆる点において
わたしたちと同様に試練にあわれたのです
だから、憐れみを受け
恵みにあずかって
時宜に適った助けをいただくために
大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」
(ヘブル人へ手の手紙4章15‐16節)


唯一の神が人となって
人の通る様々な試練を自ら受け
最後には十字架にかかって
全人類に対して救いの道を開いてくださった
この大きな愛に対する信頼は
わたしたちの弱い心を強くします

「弟子たちは出かけて行って
至るところで宣教した
主は彼らと共に働き
彼らの語る言葉が真実であることを
それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」
(マルコによる福音書16章20節)


どんな時も神が共にいて働いてくださるのは
使徒の時代だけではありません
今もわたしたちはその助けによって生かされ
これは神さまによるものだと思える様々な「しるし」が
日々の生活の中で起こります
だから信じることができ
信じることによって
惑わす者にも惑わされないように
信仰も成長します

「こうして、わたしたちは
もはや未熟な者ではなくなり
人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の
風のように変わりやすい教えに
もてあそばれたり
引き回されたりすることなく
むしろ、愛に根ざして真理を語り
あらゆる面で、頭であるキリストに向かって
成長していきます」
(エペソ人への手紙4章14‐15節)

一般的に
人間にとって
善い人との出会いは財産になると言われますが
どんなに善い人であっても完全な人はおらず
人が人を救うことはできません
ですから
神との出会いこそが一番幸いな出会いであり
神の業(奇跡やしるし)を体験し
世の中に生きる時の不安や憂いに勝利して
そこを通り過ぎることができれば
それは大きな財産だと言えるでしょう

こうして
今わたしたちは聖書を通して
「キリストについて聞き
キリストに結ばれて教えられ
真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」
(エペソ人への手紙4章21節)

真理=神=イエス
この唯一の神に結ばれて(救われて)
それまでの古い人を脱ぎ捨て
神にかたどって造られた新しい人を
身に着けたクリスチャンは
どのように生きていくべきか?
その答えが
25節以降に具体的に記されていますが
それを短く言い表すと
「悪魔にすきを与えてはなりません」(27節)
「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)
ということになります
救いの保証として
聖霊をいただいているのに
その聖霊を悲しませるような罪深い生き方を
してはならないのです

「互いに親切にし
憐れみの心で接し
神がキリストによって
あなたがたをゆるしてくださったように
ゆるし合いなさい」(32節)


人はそれぞれ「自説」というものを持っており
信仰感も各々違います
そこを神にあって一つになること
その信仰の歩みが
神に従うということになります

思うようにいかない日々の中でも
人の悲しみや苦しみを主イエスはご存じですから
そこには必ず慰めや励まし
そして助けがあって
わたしたちは感謝し
共に神をあがめることができます

その信仰の一致は
教会の中に平和をもたらし
こうして
キリストの体である教会は
一人一人が愛によって成長させられていくのです


<目次