今週のみことば
4月17日
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「あなたがたは神に愛されている子どもですから
神にならう者となりなさい
キリストがわたしたちを愛して
御自分を香りのよい供え物
つまり、いけにえとしてわたしたちのために
神にささげてくださったように
あなたがたも愛によって歩みなさい」
(エペソ人への手紙5章1-2節)
洗礼と聖霊を受けてクリスチャンになった人は
神に愛されている神の子ですから
キリストの愛にならう歩みをするように
パウロは勧めています
そのキリストの愛がどれほど大きなものであるかは
御自分をいけにえとして捧げるために十字架にかかり
全人類に救いの道を開いてくださった事でわかります
ですから
神の愛によって救われた者は
聖なる者と呼ばれるにふさわしく
まだ神を知らなかった時代の生き方から離れて
神の愛を自分の内に持ち
感謝して歩むことを求められているのです
「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者
つまり偶像礼拝者は
キリストと神の国を受け継ぐことはできません
このことをよくわきまえなさい」(5節)
偶像礼拝とは
他の神々を拝むことのみならず
肉の心のうちにある汚れた思いや考え方を指しており
そういう肉の思いは、神の心に反するため
その両方に仕えることはできません
つまり
神に救われて「光の子」となったのに
空しい言葉に惑わされて
再び「暗闇」の中をさまよう者と
なってはならないのです
「あなたがたは以前には暗闇でしたが
今は主に結ばれて
光となっています
光の子として歩みなさい
光から
あらゆる善意と正義と真実が生じるのです
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(8‐10節)
「どんな召し使いも
二人の主人に仕えることはできない
一方を憎んで他方を愛するか
一方に親しんで他方を軽んじるか
どちらかである
あなたがたは
神と富とに仕えることはできない」
(ルカによる福音書16章13節)
富を追い求める人は
その「貪欲」という肉の思いのために
神の心を忘れてしまいます
光の子として歩んでいるつもりでも
そのような暗闇からの惑わしがあれば
そちらへ引かれてしまうこともある
それが肉を持つ人間の弱さでもあります
だからこそ、わたしたちは
”何が主に喜ばれるかを吟味しなさい”
と記されているように
愚かな者とならないで
賢い者として
気を配って歩まなくてはなりません
「あなたがたはすべて光の子
昼の子だからです
わたしたちは夜にも暗闇にも属していません」
(テサロニケ人への第一の手紙5章5節)
「いつも喜んでいなさい
絶えず祈りなさい
どんなことにも感謝しなさい
これこそ、キリスト・イエスにおいて
神があなたがたに望んでおられることです」(16‐18節)
これは人間の力だけでは難しいことですが
神の力に寄れば可能です
「あなたがたをお招きになった方は
真実で
必ずそのとおりにしてくださいます」(24節)
「わたしを強めてくださる方のおかげで
わたしにはすべてが可能です」
(ピリピ人への手紙4章13節)
エペソ人への手紙5章に戻ります
後半の21節以降は
結婚式の時に引用されるみことばになっており
妻と夫、それぞれに対して
「キリストに対する畏れをもって
互いに仕え合いなさい」(21節)
と記されています
そして
「妻たちよ
主に仕えるように
自分の夫に仕えなさい
キリストが教会の頭であり
自らその体の救い主であるように
夫は妻の頭だからです」(22‐23節)
と続くわけですが
ここだけ読むと
妻は夫に従え?男尊女卑か?と
勘違いすることもあるでしょう
しかし
夫に対しても大切な心がけがあります
「夫たちよ
キリストが教会を愛し
教会のために御自分をお与えになったように
妻を愛しなさい」(25節)
「そのように夫も
自分の体のように妻を愛さなくてはなりません
わが身を憎んだ者は一人もおらず
かえって、キリストが教会になさったように
わが身を養い
いたわるものです」(28‐29節)
つまり、夫と妻は
どちらの立場が上とか下とかではなく
お互いがキリストの愛をもって仕え合う存在なのです
「あなたがたも、それぞれ
妻を自分のように愛しなさい
妻は夫を敬いなさい」(33節)
更に、ここでは
妻と夫に対する教えにとどまらず
その根本の教え(奥義)である
「キリストと教会の関係」について言及しています
キリストは教会の頭(かしら)であり
教会はキリストの体
そして
教会を構成するわたしたちクリスチャンは
キリストの体の一部です
このキリストの体である教会を
キリストは愛し、養ってくださるので
教会もまたキリストを愛し
聖なる者の集まる清い教会として成長すべく
その心を神に向け
”何が主に喜ばれるかを吟味しなさい”
との教えを聞き
キリストの愛にならう者としての生き方を
各々の生活を通して学んでいきます
このように
キリストと教会は神の愛によって結ばれており
キリストに例えられる夫と
教会に例えられる妻もまた
同様に神の愛によって結ばれ
お互いが愛をもって仕え合うことで
どちらも幸いになっていくことを教えているのです
また
男性であれ女性であれ
クリスチャンはみな「キリストの花嫁」ですから
立場は同じですが
お互いが相手を大事に思い
考え、行動するにあたって
そこにキリストの愛を交えていくことが
平和な家庭への道となるわけです
「あなたがたは神に選ばれ
聖なる者とされ
愛されているのですから
憐れみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を
身に着けなさい
互いに忍び合い
責めるべきことがあっても
ゆるし合いなさい
主があなたがたをゆるしてくださったように
あなたがたも同じようにしなさい
これらすべてに加えて
愛を身に着けなさい
愛は、すべてを完成させるきずなです」
(コロサイ人への手紙3章12‐14節)
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