今週のみことば


5月1日

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「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で
あなたがた一同のことをどれほど思っているかは
神が証ししてくださいます
わたしは、こう祈ります
知る力と見抜く力とを身に着けて
あなたがたの愛がますます豊かになり
本当に重要なことを見分けられるように
そして、キリストの日に備えて、清い者
とがめられることのない者となり
キリスト・イエスによって与えられる義の実を
あふれるほどに受けて
神の栄光と誉れとをたたえることができるように」
(ピリピ人への手紙1章8-11節)


ピリピの教会の人々に対して
パウロはまず、彼らのことをどれほど思い
彼らの信仰的な成長をいつも願っていることを
手紙の書き出しに記しています

パウロがキリストの福音を伝え始めて今日に至るまで
ピリピの人々はどんな時も
福音の恵みにあずかる者として成長してきました
そのことはパウロを喜ばせ勇気づけてきたのです

ですから
これからも彼らがキリスト者として
”本当に重要なことを見分けられるように”
キリストにある知恵と力と愛を身に着け
神の栄光をあらわす証人として
恵みにあずかってほしいと願っています

というのも
ピリピの人々は
パウロが監禁されているこの時でさえも
その信仰は弱らず
パウロをキリストの使徒として信頼し
恐れることなく勇敢に御言葉を伝えていました

パウロにとって捕らわれの身になることは
不名誉な事であっても
それが不信仰にはつながらず
それどころか
福音はいよいよ広く伝えられ
兵営全体にまで及んでいったのです

しかし
ここで福音を伝える人々の動機は
同じではありませんでした
そこにはパウロに反対する人々も加わっており
パウロを迫害する目的が
結果的にキリストを伝えることになっているという
皮肉なことも起きていいます
パウロを信頼している人もそうでない人も
共にキリストを伝えているのなら
パウロにとってはすべて喜ばしいことでした

「キリストを宣べ伝えるのに
ねたみと争いの念にかられてする者もいれば
善意でする者もいます
一方は、わたしが福音を弁明するために捕らえられているのを知って
愛の動機からそうするのですが
他方は、自分の利益を求めて
獄中のわたしをいっそう苦しめようという
不純な動機からキリストを告げ知らせているのです
だが、それがなんであろう
口実であれ、真実であれ
とにかく、キリストが告げ知らされているのですから
わたしはそれを喜んでいます
これからも喜びます」
(15‐18節)


このように
パウロは自分の名誉はどうでもよくて
とにかく多くの人に福音が知らされることを求めていました
それによってキリストが公然と崇められるなら
キリストと共に生きているパウロ自身も
神の証人として認められ
恥をかくこともないのですから

「わたしにとって
生きるとはキリストであり
死ぬことは利益なのです」(21節


捕らわれの身となっているパウロは
キリストに満たされて生きており
これからも生きて
福音宣教の務めを果たしたいと思う一方
死んで天国に行きたという思いもありました
そうなればもう苦しむこともないでしょう
それでも
やはり自分が生きているほうが
ピリピの教会の人々にとって必要だと思う
そして
次にそちらに行くときには
みんなが聖霊によってしっかり立ち
心を合わせて信仰のために戦い
どんなことがあっても迫害者に負けない様子を
ぜひ聞きたいと
希望を持ち、願っているのです

「どんなことがあっても
反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと
このことは、反対者たちに
彼ら自身の滅びと
あなたがたの救いを示すものです
これは神によることです
つまり、あなたがたには
キリストを信じることだけでなく
キリストのために苦しむことも
恵みとして与えられているのです」(28‐29節)


ただキリストを信じるだけではなく
どんな迫害にも動じず
どんな苦難にも負けない
その信仰者の姿は
迫害する者へのダメージとなり
また
そこには神の助けがあって
苦しみはやがて
恵みにつながっていきます

かつてパウロが戦ってきたように
ピリピの教会の人々も戦いの中にありますが
キリストに結ばれているものの戦いは
みな同じ戦いです
パウロは彼らに対して
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)
クリスチャンとして生きる姿勢を説き
彼らを励ましました

現代を生きるわたしたちの人生の戦いも同じで
人生を生き抜くには
まず神の知恵が必要であり
聖霊の力によって
重要な事を見分けなくてはなりません
いつも何がしか失敗する人には
この知恵がないのです

更に
人生は決して楽なものではなく
苦しい所も通りますが
そこに必要なのが信仰です
苦しい時に世を見れば
何が正しいことか分からず
惑わされ
希望を見出すことができません
しかし
神を見れば
救いを体験することができるので
生きる希望が見えてきます

こうして
各々置かれたところで
不本意な道を通されることはあっても
それはすべて無駄にはならず
かえって益となることを
わたしたちは様々な神の証によって知ることとなり
神が開かれる道に従う幸いを教えられ
やがてどんなところにあっても希望を持つことができるように
強く成長させていただけるのです

「主は彼らと共に働き
彼らの語る言葉が真実であることを
それに伴うしるしによって
はっきりとお示しになった」
(マルコによる福音書16章20節)



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