今週のみことば


5月15日

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「あの犬どもを警戒しなさい
悪い働き人たちを警戒しなさい
肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい
神の霊によって礼拝をし
キリスト・イエスを誇りとし
肉を頼みとしないわたしたちこそ割礼の者である」
(ピリピ人への手紙3章2-3節)


ここでパウロがいう「犬ども」とは
不道徳な人や、律法にこだわる人
つまりキリストの福音に反する人の例えです
また、邪悪な働き人や
肉の割礼を受けていることを誇る人
そのような人たちに影響を受けないように
ピリピの教会の人々が気をつけて歩むことを
パウロは切に願っています

イエスの名による救いを受けたクリスチャンは
「肉の割礼」とは異なる「真の割礼」を受けた者ですから
聖霊に導かれて礼拝し
肉に頼らず
キリストを誇りとして生きていくのです

とはいえ
パウロ自身は
世にあって誇れる材料を持っていたので
肉に頼ろうと思えばそれも十分できる人でした

「わたしは八日目に割礼を受けた者
イスラエルの民族に属する者
ベミヤミン族の出身
ヘブル人の中のヘブル人
律法の上ではパリサイ人
熱心の点では教会の迫害者
律法の義については落ち度のない者である」
(5‐6節)


このような出自と経歴を持つパウロですから
かつてはそれを誇りとし
頼りにすることもできたのですが
自分にとって益だと思っていたそれらのものを
キリストに捕らえられ、救われてからは
損だと思うようになったのです

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは、更に進んで
わたしの主キリスト・イエスを知る知識の
絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえに
わたしはすべてを失ったが
それらのものを
ふん土のように思っている」
(7‐8節)


かつては自分の誇りであったものが
実は、キリストを知るさまたげとなっており
キリストの素晴らしさを知るほど
それは損失だったのだと思うようになったパウロは
キリストのために失った自分の誇りを
今はゴミクズのようだとさえ思っているのでした

それは
パウロが以前信じていたように
律法の行いによって救われるのではなく
キリストを信じる信仰によって救われて
キリストに似る者として生きることの
素晴らしさを知ったからです

「すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて
キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(9節)


「すなわち、キリストとその復活の力とを知り
その苦難にあずかって
その死のさまにひとしくなり
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」
(10‐11節)


捕らわれの身であるパウロは
そのつらく苦しい状況下で
主イエスに希望を置くことで心励まされ
前を向いて進もうとしています

どんなに絶望するような状況に置かれても
キリストの死のさまに等しく
この死んだような状態にあっても
復活の力を与えられ
自分の使命を最後まで全うしたいのです

この「死人のうちからの復活」について
パウロ自身はそれを捕らえようと
追い求めている最中であり
すでに自分が完全な者になっているわけではありません

「兄弟たちよ
わたしはすでに捕らえたとは思っていない
ただこの一事を努めている
すなわち、後のものを忘れ
前のものに向かって体を伸ばしつつ
目標を目指して走り
キリスト・イエスにおいて
上に召してくださる神の賞与を得ようと
努めているのである」
(13‐14節)


苦難の中から立ち上がる「復活の力」は
キリストの死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けることで
与えられるもの
キリストの死にあずかるバプテスマによって
彼と共に葬られたクリスチャンは
キリストが死人の中からよみがえったように
自分たちもまた
新しい命に生きることができるのです

「もしわたしたちが
彼に結びついて
その死の様にひとしくなるなら
さらに
彼の復活の様にもひとしくなるであろう」
(ローマ人への手紙6章5節)


こうして「復活の力」が与えられると
人の心は強められ
平安を得ることができます

「死人」とは
単にこの命がなくなることを指すのではなく
生きていても死んだ状態になっている人
すなわち
世の中の権威や富に心が奪われ
自分を見失っている人や
人を恐れて自由に生きられない人
自分が置かれた状況に絶望し
立ち上がれない人など
神を見ることができないために
まっとうに生きられない人も「死人」です

このような人々が復活し
新たに生かされていくためには
まずバプテスマを受けて
キリストと共に一度この世に葬られ
復活の力にあずかって
新しい自分になって生きることが必要です
そして
実際に平安が与えられ
前を向いて生きる力が与えられるのは
信仰によって「魂の救い」を得ているからです

「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが
彼を愛している
現在、見てはいないけれども
信じて、言葉につくせない
輝きにみちた喜びにあふれている
それは、信仰の結果なる
たましいの救いを得ているからである」
(ペテロの第一の手紙1章8節)


クリスチャンはご再臨の時に
完全な復活という神の賞与にあずかる者ですが
この世にある間
世の中のあらゆる苦難に勝利し
どんなことも恐れない強さを持つ
この何者にも左右されない平安に達することも
神の賞与ではないでしょうか

そして
パウロは、ピリピの教会の人々にも
自分と同じ考えをもって
前を向いて歩んでほしいと願っています

というのも
キリストの十字架の福音に敵対している人が
残念ながらたくさんいるからです
そういう人たちは
キリストへの信仰ではなく
自分の思いと欲で歩んでいるのです

「彼らの最後は滅びである
彼らの神はその腹
彼らの思いは地上のことである」(19節)


しかし
彼らの思いは地上にあっても
わたしたちの思いは天に向いています

「わたしたちの国籍は天にある
そこから、救い主、主イエス・キリストの来られるのを
わたしたちは待ち望んでいる」(20節)


人の心(信仰)が成長していくと
日々の戦い(試練)の中にあっても
希望と力がわいてきます
天の国籍を持つクリスチャンは
このような生き方を心がけ
人の言葉に左右されず
神の言葉に従って
進んでいくことが大切です


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