今週のみことば


6月5日

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「キリストのうちには
知恵と知識との宝が
いっさい隠されている
わたしがこう言うのは
あなたがたが
だれにも巧みな言葉で
迷わされることのないためである」
(コロサイ人への手紙2章3‐4節))


2章においてパウロは
クリスチャンにとって
”キリストに根ざした信仰”をすることが
いかに重要であるかを説いています

キリストには
人知をはるかに超えた知恵と力があり
キリストに救われ
キリストと共に歩む人にとって
その力は大きな助けです
ところが
世の中には
人をだます教えが横行しているので
キリストに根ざした生き方考え方を知らないままでは
巧みな言葉でだまされ
人生に迷うことになりかねません

「このようにあなたがたは
主キリスト・イエスを受け入れたのだから
彼にあって歩きなさい
また、彼に根ざし、彼にあって建てられ
そして教えられたように
信仰が確立されて
あふれるばかり感謝しなさい」
(6‐7節)


パウロは2節で語っているように
コロサイの教会の人々が
”キリストによって心励まされ
愛によって結び合わされ
豊かな理解力を十分に与えられ
神の奥義なるキリストを十分に知る”ように
成長してほしいと願っています

というのは
キリストの福音に反対し
「律法の行い」によって救われようとする教えが
人々を惑わし
更には
「人間の言い伝えにすぎない哲学」に
とりこにされる人もあったからです

惑わされる人は
キリストに根ざしていない=キリストを知らないために
そのような惑わしに陥ります
現代にあっても
わたしたちの周りには
「むなしいだましごと」が横行しており
魅力的な宣伝文句につられて
本当に正しいことを見失ってしまいがちです

キリストに根ざし
真実を見極める目を持っていれば
「むなしいだましごと」を見分けることもできますが
心が信仰によって堅く保たれていないと
惑わしにのってしまうこともあるでしょう

「あなたがたは
むなしいだましごとの哲学で
人のとりこにされないように気をつけなさい
それはキリストに従わず
世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに
基づくものにすぎない」(8節)


キリストは神ご自身であり
すべての支配や権威の頭です
キリストによって救われた者は
洗礼によってキリストと共に葬られ
キリストと共に復活させられました
こうして
かつて罪の中で死んでいたものが
すべての罪をないものとされ
キリストに満たされて
生きる者とされたのです

「あなたがたは、先には罪の中にあり
かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが
神は、あなたがたをキリストと共に生かし
わたしたちのいっさいの罪をゆるしてくださった」(13節)


神ご自身が救い主(キリスト)として
肉体を持って生まれ
その肉体を十字架にかけることで
「律法の時代」は終わり
「律法」にのっとった生活をしていない異邦人も
洗礼と聖霊による救いにあずかることで
すべての罪をゆるされ
「神の民」とされることになったのです
こうして主イエスご自身が
その肉体をもって「律法の時代」に終止符を打ち
もはや律法の規定にしばられる必要はなくなりました

「だから、あなたがたは
食物と飲み物とにつき
あるいは祭や新月や安息日などについて
だれにも批評されてはならない
これらは、きたるべきもの影であって
その本体はキリストにある」(16節)


「律法の時代」には
生活規範や祭事などの細かい規定があり
必ずそれを守らなければなりませんでした
しかし
キリストの救いが来た今は
重要なのは律法を守ることではなく
キリストの言葉に従うことですが
それが理解できない人々は
相変わらず律法の行いについて
とやかく言っていたようです
そして
頭(かしら)としてのキリストを信じないために
律法にこだわり
人の作った規定にしばられ
ひとりよがりの間違った信仰をして
人々を惑わしていくのでした

「もし、あなたがたが
キリスト共に死んで
世のもろもろの霊力から離れたのなら
なぜ、なおこの世に生きているもののように
『さわるな、味わうな、ふれるな』などという
規定にしばられているのか
これらは皆
使えば尽きてしまうもの
人間の規定や教えによっているものである
これらのことは
ひとりよがりの礼拝と
わざとらしい謙そんと
からだの苦行とをともなうので
知恵のあるしわざらしく見えるが
実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに
なんの役にも立つものではない」(20‐23節)

わたしたちは今
モーセ時代の律法にしばられてはいないとしても
(自分も含めた)人の作った教えに惑わされ
自分のこだわりに基づいた
自分流の信仰をしていないでしょうか

自分で色々考えて
こうすればこうなるはず・・・と思い
そのとおりに行動していても
そこに成るのは
神が決めたこと(御旨)です

その神がなさったことに対して
わたしたちがどう考え
それが感謝につながっていくのか
あるいは
自分がこうしたから物事が上手くいったと思い
自分に栄光を帰することになっていないか等
信仰を省みるのは重要なことでしょう

エペソ人への手紙3章17‐19節には
信仰によってキリストを心に住まわせ
愛に根ざし、愛を基として生活することで
キリストの愛がどれほど大きなものであるかを知り
神にあるところのもので満たされるように・・・
と記されています

また
エペソ人への手紙4章21節において
”真理はイエスの内にある”と教えられました
だからイエスの言葉に聞き従うのです

もし神の業(奇跡)を体験し
助けられたと思ったなら
その神の愛に対する感謝を
わたしたちは忘れてはなりません
それが”キリストに根ざした信仰”であり
その信仰は
その後の歩みにも生きてくるもの
つまり
試練の中に置かれても
常に神よりの希望と平安があり
戦いに勝利することができるのです

更に
頭なるキリストの言葉を伝えるために
キリストの体であるところの教会が置かれており
そこには
キリストにあるもののすべてが満ちていると
エペソ人への手紙1章23節には記されています

「この教会はキリストのからだであって
すべてのものを
すべてのもののうちに満たしているかたが
満ちみちているものに、ほかならない」


せっかく洗礼を受けてキリストのものとなっても
その心がキリストに向かず
キリストの心(愛)を理解できないままでいると
この世に存在する様々な教えに惑わされ
迷いの中におかれて平安がありません

わたしたちは頭であるキリストにつくことで
神に育てられて成長します
このキリストに聞き従うことで
教会にある一人一人が成長し
教会全体がしっかりとした体に整っていくことを
パウロは願い求めているのです


<目次