今週のみことば


7月3日

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「いったい、わたしたちの宣教は
迷いや汚れた心から出たものでもなく
だましごとでもない
かえって、わたしたちは
神の信任を受けて福音を託されたので
人間に喜ばれるためではなく
わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように
福音を語るのである
わたしたちは、あなたがたが知っているように
決してへつらいの言葉を用いたこともなく
口実を設けて
むさぼったこともない
それは、神があかしして下さる
また、わたしたちは
キリストの使徒として重んじられることができたのであるが
あなたがたからにもせよ
ほかの人々からにもせよ
人間からの栄誉を求めることはしなかった」
(テサロニケ人への第一の手紙2章3-6節)


パウロたちは
ピリピの教会では苦しめられたけれど
神によって勇気づけられ
テサロニケの教会に福音を伝えたのはよかったと
2章の初めには記されています

なぜなら
彼らはパウロたちの言葉を
「神の言葉」として受け入れ
その神の言葉が
信じている人々の中で働いて
テサロニケの教会は困難に打ち勝ち
信仰が成長していったからです(13節)

彼らは同国人からの迫害にも負けず
人にへつらうことをせず
神に喜ばれる道を歩み
「キリストの諸教会にならう者」となりました(14節)

そんな彼らに対して
パウロは
指導者である自分たち使徒が
どのような思いをもって歩んでいるか
その心がけについて語り
テサロニケの人々にも
使徒たちの歩みに習い
信仰に立って
強く生きてほしいと勧めています

パウロたちが福音を伝えているのは
迷いや不純な動機からではなく
人を惑わすようなものでもありません
彼らは純粋に
「神に喜ばれるため」に宣教しているのであって
人を喜ばせて何か得ようとか
あるいは、自分の誉れを求めたり
権威をふりかざすようなことなど
決してしたことはありませんでした

彼らは
「心を見分ける神」によって
使徒職に任ぜられたことを自覚しており
自分たちが模範となるべく
神に喜ばれる正しい心をもって
歩むことを心がけています

更には
子どもを大事に見守る母親のような心境で
教会の人々を愛をもって教え導き
信者の負担とならないように
自分たちは日夜働きながら
福音を伝えていたのでした(9節)

使徒行伝18章3節には
パウロの職業は
「テント造り」であったことが記されています
また、テサロニケ人への第二の手紙3章では
怠惰な生活を戒めており
自らの生活のために仕事をすることで
人からの援助を期待しない
毅然とした姿勢を示しています

「あなたがた信者に対して
わたしたちがどれほど敬虔に
正しく、非難されることのないようにふるまったか
あなたがたが証しし
神も証ししてくださいます」(10節)


こうしてパウロたちは
自ら信者の模範となるべく
「神に喜ばれる者」としての道を
全うしていきました

「今わたしは
人に喜ばれようとしているのか
それとも
神に喜ばれようとしているのか
あるいは
人の歓心を買おうと努めているのか
もし、今もなお
人の歓心を買おうとしているとすれば
わたしはキリストの僕(しもべ)ではあるまい」
(ガラテヤ人への手紙1章10節)

「人を喜ばせる」ことの「人」とは
他人だけでなく自分自身も入ります
人を喜ばせることは
人の欲を満たすことにつながり
それは自分にとって得になるかもしれませんが
果して神に喜ばれることでしょうか

パウロたちは使徒として
人々から称賛されたり
多大な援助を受ける権利もありましたが
そのために人に取り入ったり
金品をむさぼったりするような
自分の損得で動くことをしませんでした
そういうやましい心と行いは
神に喜ばれないと分かっていたからです

神に従う道は
単に損得で考えれば
損と思う道かも知れません
世の中で豊かになろうと思えば
権力のある人に取り入り
信念を曲げてでも
得をする方向に歩むのが得策でしょう
しかし
そのような歩みは
真の神を信じる信仰から出たものではなく
神以外の力を頼りとした
偶像崇拝と同じです

では
「神に喜ばれる信仰」とは
具体的にどのようになることを示しているのでしょうか

わたしたちの人生は
いつも思うようにいかないことと隣り合わせで
問題が大きくなるほど
希望を失いがちではありますが
どのような状況であっても
神への信仰を失わず
福音の言葉を信じ
人の言葉に惑わされないで
神に希望をおいて進んでいく人こそ
神に喜ばれる人なのです

病気や貧困、その他様々な悩みに対して
不安はあっても
決して絶望しない
そんな神にゆだねた人生には
必ず神の助けがあり
希望があります

ヨシュア記6章には
難攻不落と言われたエリコの城壁が
人の力によらず
神の力によって倒された記述があります
それは昔々の物語ではなく
今も信じる者に働く神の力であり
希望なのです

テサロニケの教会の人々は
使徒たちに習い
迫害や苦難を恐れず
希望を持ち
神に喜ばれる信仰の道に歩み
その事は使徒たちを喜ばせました

「あなたがたこそ
実にわたしたちのほまれであり
喜びである」(20節)


そして
彼らの模範となった使徒たちも
自分の心を満足させるような
不純な信仰ではなく
指導者として
教会の人々を愛し
神の前に自分が正しくある様に努めています

立場は各々違っていても
神に喜ばれる者としての信仰を持つことは
クリスチャンとして生きる者にとって
最も重要な課題ですから
今、目の前に
難攻不落と思える難題があっても
神を忘れず
聖書に記された神の力を信じて
希望をもって進んでいきましょう

「その時、あなたはみずから慎み
エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を
忘れてはならない」
(申命記6章12節)




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