今週のみことば


8月15日

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「どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように
事実、すべての人が信仰を持っているわけではない
しかし、主は真実な方であるから
あなたがたを強め
悪しき者から守ってくださるであろう」
(テサロニケ人への第二の手紙3章2-3節)


この手紙の最終章は
まず
すべての人が信仰を持っているわけではないため
悪しき人に注意して
そのような人々に影響されないように
使徒たちの言葉を実行し
心を強くして歩むように勧めています

そして
そういう悪しき人々は
使徒たちからの教えに従わず
自分のするべき仕事をしないで
怠惰な生活をしていますから
そんな人々とは同調せず
距離を置くべきなのです

「兄弟たちよ
主イエス・キリストの名によって
あなたがたに命じる
怠惰な生活をして
わたしたちから受けた言い伝えに従わない
すべての兄弟たちから遠ざかりなさい」(6節)


これまでパウロたちは
人の援助に甘んじて
使徒としての仕事もしないような
怠惰な生活をしたことはありませんでした
それどころか
彼らは
だれにも負担をかけまいとして
夜昼大変苦労して働き続けたのです(8節)

使徒である彼らには
伝道活動を支援するための
人々からの援助を受ける権利がありました
しかし
その権利の上にあぐらをかいていたのでは
人々の見本になることはできない
ですから
自分たちを厳しく律して
『働きたくない者は食べてはならない』と
天幕張りの仕事をしつつ
福音宣教をしていたのです(9‐10節)

「ところが聞くところによると
あなたがたのうちのある者は
怠惰な生活を送り
働かないで
いたずらに動き回っているとのことである
こうした人々に対しては
静かに働いて自分で得たパンを食べるように
主イエス・キリストの名によって命じまた勧める」
(11‐12節)


”いたずらに動き回っている”
「余計なことをしている」とも訳されているように
本来するべき務めを果たしていないということ
つまり
教会の牧師であれば
迷える羊である兄弟姉妹を
迷うことのないように正しく導く務めを
きちんと果たしているかということでしょう

そもそも
牧師は「働いていない」と言われることがあります
一般の会社に勤めていないと
何をしているのか分からないため
そのような見方もされてしまうのですが
人々が生きていくために必要な導きや助けを
その人々のことを常に思いつつ
人知れず行う務めは
決して容易いものではありません

そして
この働きに対して
教会は様々な援助を受け
牧師はその援助を受ける権利を持っています
ただし
権利があるから何をしてもいいというわけではない
ここを勘違いすると
人の援助ばかりを当てにして
神ではなく
人から何かもらうことを期待し
自分の仕事を放棄して
貪欲になっていく危険性があるのです

たとえば
あの人はたくさん献金する人だから
あの人には特別お世話になっているから
などと思えば
その人に対して
常に正しい(厳しい)ことを言えるでしょうか
もし
本当のことを言って機嫌を損ねると困る
と思うなら
正しい指導はできません
つまり
牧師としての仕事を
真面目にしていないことになるでしょう

ですから
わたしたちは
一般の仕事の人もみな含めて
人からの助けばかり期待しないで
自分に与えられた仕事に真摯に向き合い
静かにその務めを果さなくてはなりません

また
牧師が生活のために別の仕事をすることは
何ら恥じることではなく
それは
パウロたちも公言しているとおりですが
それはあくまでも福音宣教を持続する手段であって
本来の仕事を忘れては本末転倒です

「兄弟たちよ
あなたがたは、わたしたちの
労苦と努力とを記憶していることであろう
すなわち
あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って
日夜はたらきながら
あなたがたに神の福音を宣べ伝えた」
(テサロニケ人への第一の手紙2章9節)


人の援助を期待していると
「人がどう思うか」が重要になり
「神がどう思うか」という
本来の信仰に立つことができなくなります

神の愛によって支えられているわたしたちの人生は
あくまでも神が中心で
信仰のない人からの中傷に
動揺する必要はありません
そして
この手紙の締めくくりにあたっては
以下のように記されています

「もしこの手紙に記したわたしたちの言葉に
聞き従わない人があれば
そのような人には注意をして
交際しないがよい
彼が自ら恥じるようになるためである
しかし
彼を敵のように思わないで
兄弟として訓戒しなさい」(14‐15節)


わたしたちの神は平和の神です
どんな時にも平和であることを重視して
過ごしていきたいと思います


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