今週のみことば
10月1日
(スマートフォン用ページはこちら)
「こころの貧しい人たちは、さいわいである
天国は彼らのものである
悲しんでいる人たちは、さいわいである
彼らは慰められるであろう
柔和な人たちは、さいわいである
彼らは地を受けつぐであろう
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである
彼らは飽き足りるようになるであろう
あわれみ深い人たちは、さいわいである
彼らはあわれみを受けるであろう
心の清い人たちは、さいわいである
彼らは神を見るであろう
平和をつくり出す人たちは、さいわいである
彼らは神の子と呼ばれるであろう
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである
天国は彼らのものである」
(マタイによる福音書5章3-10節)
弟子たちを連れて福音宣教を始めた主イエスは
ある時、集まってきた群衆と共に山に登り
そこで弟子たちに説教を始めました
ここは『山上の垂訓』と呼ばれる有名な箇所ですが
そのみことばは
「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と
やや不可解な言葉から始まっています
日本語で「こころの貧しい人」と聞くと
心のひねくれた、卑しい人のこと?とも思えるのですが
ここで教えているのは
”神と共にいないと自分には何もない”という
謙虚な思いを持ち、救いを求め
「神により頼む人」
「神の心(愛)を求める人」
あるいは
「神の愛に飢えている人」のこと
と表現してもいいかもしれません
4節以下の「人たち」についても
「神を求める心」が根底にあることで
彼らは「さいわいである」と語られています
なぜなら
神を信頼し、その救いを求めることにより
彼らは神からの慰めや
報いを受けることができるからです
更に13節からは
主イエスを信じる者たちに対して
「あなたがたは地の塩である」
「あなたがたは世の光である」として
彼らの行いが
神の心を反映するものであるように
それによって
周りに役立つ「塩」となり
希望を与える「光」となるように教えています
そして、それは
自分が誉められるためではなく
神に栄光が帰されるためであることを
忘れてはなりません
「そのように、あなたがたの光を
人々の前に輝かし
そして、人々があなたがたのよいおこないを見て
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(16節)
17節以降は
「律法」についての話が続きます
主イエスがこの世に来られたのは
「律法」や「預言者」といった古い時代のものを
排除するためではありません
むしろそれらが完成し、成就するためなのですが
ここで教えているのは
律法学者やパリサイ人がするように
文字としての律法に従い
心(愛)のない行いをして
自分を誇り、人を裁くことがないよう
「キリストの愛に根ざした律法」の教えです
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは
あなたがたの聞いているところである
しかし、わたしはあなたがたに言う
悪人に手向かうな
もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら
他の頬をも向けてやりなさい」(38‐39節)
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは
あなたがたの聞いているところである
しかし、わたしはあなたがたに言う
敵を愛し、迫害する者のために祈れ
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも
太陽をのぼらせ
正しい者にも正しくない者にも
雨を降らしてくださるからである」(43‐44節)
ここでは具体的にかつての「律法」をあげて
それらに愛を加えることで
「復讐してはならない」
「敵を愛しなさい」と
律法の完成された形が示されています
この神の究極の愛による律法は
人にはなかなか受け入れがたい所もありますが
それまで心がなくても単に命令を守るだけだった「律法」に
神の愛を交え
律法だから「〜しなければならない」ではなく
神の心だから「なるべく近づくように」と
思いを新たにしていくことは
「地の塩」「世の光」としての
主イエスの輝く栄光を示す歩みにつながっていきます
それは
サタンにほんろうされて心にすきができ
過ちを犯すことがないように
歩みが正しく整えられていくからです
<目次