今週のみことば


10月8日

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「自分の義を見られるために
人の前で行わないように注意しなさい
もし、そうしないと
天にいますあなたがたの父から
報いを受けることがないであろう
だから、施しをする時には
偽善者たちが人にほめられるため
会堂や町の中でするように
自分の前でラッパを吹き鳴らすな
よく言っておくが
彼らはその報いを受けてしまっている
あなたは施しをする場合
右の手のしていることを左の手に知らせるな
それは、あなたのする施しが
隠れているためである
すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は
報いてくださるであろう」
(マタイによる福音書6章1-4節)

5章から始まった『山上の垂訓』の続きです

ここで主イエスは
「施し(善行)をする時」「祈る時」「断食をする時」には
人に見せるためにするのではなく
神に見られるためにするのだと教えています
いかにも熱心であるように自分を装う「見せる信仰」は
神に喜ばれるものではないからです

また
祈りの言葉数が多ければ
それで聞きいれられるわけでもありません
そういう発想もまた
実に人間的なものであって
人の心をご存じの神から見れば
わたしたちに必要なものは
願う前からわかっておられるのです(7‐8節)

「だから、あなたがたはこう祈りなさい
『天にいますわれらの父よ
御名があがめられますように
御国がきますように
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように
わたしたちの日ごとの食物を
きょうもお与えください
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように
わたしたちの負債をもおゆるしください
わたしたちを試みに会わせないで
悪しき者からお救いください』」(9‐13節)


この『主の祈り』の中には
信仰するわたしたちが
常に心に留めておくべき思いが集約されています
ここで求めるのは、まず何よりも
神の栄光と天国の望み
そして
人生に必要なものが与えられる願いと共に
キリストの愛を基とした「許し」という課題と
それをさまたげるサタンの誘惑から逃れることを求めて
日々祈っていかなければならないことを教えられます

しかし
生きていくには多くの不安があります
その時わたしたちは何に望みをおき
どこに目を向けていくのでしょうか

19節以降には
「天に宝を積む」という勧めが出てきますが
地上の宝が「富(お金)」であるのに対して
天の宝は神への信仰です
つまり
全能の神に頼る人生か
地上の富に頼る人生か
自分の中ではっきりさせておかなくては
信仰の目がかすんで光を失い
全身が暗い状態になってしまうのです

「あなたの宝のある所には
心もあるからである」(21節)


「だれもふたりの主人に
兼ね仕えることはできない
一方を憎んで他方を愛し
あるいは、一方に親しんで
他方をうとんじるからである
あなたがたは、神と富とに
兼ね仕えることはできない」(24節)


このように
「天に宝を積む」とは
神に人生をゆだねて生きることを教えており
主イエスに救われて人生を歩んでいることは
人生の一番大きな宝なのです

それでも、この地上に生きている限り
わたしたちには常に不安が付きまとい
「思いわずらい」は絶えません
そのため
25節以降は
人の思いわずらいの虚しさと共に
神に生かされている空の鳥や野の花を例にあげて
同じようにわたしたちも必ず養われること
だから信仰をもって歩むようにと
励ましの言葉が続きます

「だから、あすのことを思いわずらうな
あすのことは
あす自身が思いわずらうであろう
一日の苦労は
その日一日だけで十分である」(34節)


人生に悩みは尽きませんが
今日一日守られたことに感謝し
明日もまた心の中の光を保ち
神にあるこの身の幸いを信じて
進んでいきましょう



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