今週のみことば


10月29日

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「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った
すると、一人の重い皮膚病を患っている人が
イエスに近寄り、ひれ伏して
『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』
と言った
イエスが手を差し伸べてその人にふれ
『よろしい。清くなれ』と言われると
たちまち重い皮膚病は清くなった」
(マタイによる福音書8章1-3節)

『山上の垂訓』を終えて下山した主イエスの元には
多くの人々がついてきましたが
その中に「重い皮膚病(らい病)」を患っている人がいました
彼は主イエスが神としての権威を持つ人だと信じていたのでしょう
”主よ、御心ならば”と前置きし
不治の病が癒されることを信じて願います
すると主イエスご自身もまた
”よろしい”→文語訳では”わが意なり”と返答し
自らが神であることを示された後
彼にふれただけで病は癒されたのでした

また、5節からは
百人隊長がやってきて
自分の部下の病が癒されること願い出るのですが
主イエスが自ら出向いて癒してあげると言われたにもかかわらず
「主よ、わたしはあなたを
自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません
ただ、ひと言おっしゃってください
そうすれば、わたしのしもべは癒されます」(8節)

と言うのです

この百人隊長はユダヤ人ではありませんが
主イエスに対して
神としての信頼と信仰を持っていたのでしょう
”みことば”をもらうだけで癒されると信じたのです
そして、彼自身”権威の下にある者”ですから
最高権威者である神のみことばに従うのは
当然のことなのでした

「イエスはこれを聞いて感心し
従っていた人々に言われた
『はっきり言っておく
イスラエルの中でさえ
わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(10節)


「そして、百人隊長に言われた
『帰りなさい
あなたが信じたとおりになるように』
ちょうどその時、僕の病気はいやされた」(12節)


その後、14節以降にも
多くの病人がいやされた記述があります
それは預言者イザヤの預言が成就するためでした

「『彼はわたしたちの患いを負い
わたしたちの病を担った』」(17節)


こうして多くの奇跡を見た人々の中には
どこまでも主イエスについて行こうと思う人も出てきます
しかし、弟子としてついて行くには
相応の覚悟が必要であることを
弟子の一人が告げられるのです

「弟子の一人がイエスに
『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った
イエスは言われた
『わたしに従いなさい
死んでいる者たちに
自分たちの死者を葬らせなさい』」(21‐22節)


ここを読む時には
親の葬儀もできないのか?と勘違いしそうですが
”神に従う”とは
”非情になること”を教えているわけではありません

当時、父親の権威は大きく
子はその言葉(教え)に従って生きているわけで
その進む道は
主イエスによって示される「いのちの道」ではなく
世の中の考え(風習)に従う「滅びの道」です

ですから、ここでは
神の言葉に立つか?
それとも世の言葉に立つのか?
死んで行く者に従う道よりも
わたしたちを生かしてくださる方(神)に従う道を選ぶように
その覚悟を決めるよう求められているのです

とは言え
主イエスを信じて従っているはずの弟子たちでさえ
なかなか自分のもつ固定観念を捨てることは難しく
一緒に乗った船が嵐で沈みそうになると
眠っている主イエスを起こし
『主よ、助けてください』とあわてました

「イエスは言われた
『なぜ怖がるのか
信仰の薄い者たちよ』
そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると
すっかり凪になった」(26節)


言葉をもって嵐をしずめることができるなど
人々にとっては信じ難いことでした
それは、主イエスが神であると信じれば
すぐにわかることであっても
「いったい、この方はどういう方なのだろう」と
ただ驚くのみで
それですぐに本当の信仰に
結びつくわけではなかったのです

その後、向こう岸の町では
悪霊につかれた人が二人
墓場から出てイエスのところにやってきました
悪霊は主イエスを「神の子」と呼び
自分たちが滅ぼされることを恐れて
遠くにいる豚の群れに入ることを願います

「イエスが『行け』と言われると
悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った
すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み
水の中で死んだ
豚飼いたちは逃げ出し、町に行って
悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた
すると、町中の者がイエスに会おうとしてやってきた
そして、イエスを見ると
その地方から出て行ってもらいたいといった」(32‐34節)


せっかく神の業を見て、あるいは聞いて知ったのに
人々は主イエスを信じるどころか
町から出て行くように願いました
それは、自分の内側にある”世の思い”が
信仰のさまたげとなったからです

つまり、主イエスの業によって豚飼いは豚を失い
損害をこうむったわけで
この目先の損得勘定のために
神の業を正しく見ることができませんでした
そして
町中の人もまた
自分の思いや考えを優先し
主イエスを追い出してしまった、、
何と残念なことでしょう

この8章では
主イエスによる多くの奇跡が行われ
病気の癒しにおいても
言葉で癒す場合、直接ふれて癒す場合と
色々なケースがありますが
どの奇跡も
神をあがめるために行われるものであること
そして
この奇跡を受け入れる(信じる)者は
それによって人生が変わっていくことを
よく知っていただきたいのです

その上で
今やっていること、思っていることを
自分の固定観念から離れて
神の方へ寄せていき
すべての力をもつ全能の神を信じる信仰が
一人一人の中で育っていくことを願っています



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