今週のみことば
11月26日
(スマートフォン用ページはこちら)
「そのころ、ある安息日に
イエスは麦畑の中を通られた
すると弟子たちは、空腹であったので
穂を摘んで食べはじめた
パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った
『ごらんなさい、あなたの弟子たちが
安息日にしてはならないことをしています』」
(マタイによる福音書12章1-2節)
”安息日には何もしてはならない”
という律法を重んじるパリサイ人にとって
イエスの弟子たちの行為は許されざることでした
そして、このことは
イエスを攻撃する材料として好都合だったのです
しかし、イエスは
旧約聖書を引用しながら
安息日の持つ本当の意味について説明し
パリサイ人たちが反論できないようにしていきます
まず3節からは
かつてダビデが神殿の供えのパンを食べても
神から罰せられることがなかった事実をあげ
神にとっての「律法」は
懲罰を与えるためではなく
憐れみのためにあること
そして、今や
その律法を与えた神ご自身が
人類の罪の許しのために「救い主」となって
この世に来られた
それが「人の子」主イエス・キリストなのだと
人々に明らかにされるのでした
「『わたしが好むのは、あわれみであって
いけにえではない(ホセア書6章6節参照)』
とはどういう意味か知っていたなら
あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう
人の子は安息日の主である」(7‐8節)
イエスはご自身のことを「人の子」と表現されますが
それはダニエル書7章13‐14節に起因しています
そこ記された「人の子」は
”彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない”
すべてのものの最高権威者
すなわち神のことを指しているのです
ですから
安息日に関する律法も
元は神である主イエスから出たものであり
安息日の意味を一番よく知っているのは
当然イエスご自身なわけです
ところがパリサイ人たちは
自分勝手な安息日の解釈をして
人を攻撃する材料にしている
そもそもそういう信仰感が間違っているのですが
彼らはイエスを信じないので
本当の信仰が分からないままでした
そのため10節では
「安息日に病気を治すのは
律法で許されていますか」
という的外れなことをたずねています
そして、それに対するイエスの答えは
「安息日に善いことをするのは許されている」として
手の萎えた人をその場で癒すのでした
このように
律法の形だけを重要視するパリサイ人の信仰感と
真の神の心をくみとる主イエスの信仰感は
どこまでも平行線のまま
パリサイ人たちは「安息日の本質」を見失った状態です
では、安息日の本質とは何でしょうか
それは掟として単なる形を守るものではなく
また、安息日の形を守れない人を罪に定める日でもなく
人が神と交わる「恵みの日」です
そして
神が自らの恵みを授けてくださることを「祝福」と呼び
わたしたちはその恵みを受けることに感謝こそすれ
恵みを変えて人を攻撃する材料にするなど
そのようなことは決してあってはなりません
しかし
目に見えるものを重要視するパリサイ人にとって
その思想に反するイエスの主張は受け入れがたく
さらにはイエスが神としての業をなし
神としての性質を様々な形で表現されることから
どのようにしてイエスを殺そうかと相談するようになりました
そこでイエスはその場を立ち去り
多くの人の病気をいやしつつ
群衆には自分のことを言いふらさないようにと命じます
それは預言者イザヤの言葉が実現するためでした
「見よ、わたしが選んだ僕
わたしの心にかなう、愛する者
わたしは彼にわたしの霊を授け
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう
彼は争わず、叫ばず
またその声を大路で聞く者はない
彼が正義に勝ちを得させる時まで
いためられた葦(あし)を折ることがなく
けむっている燈心を消すこともない
異邦人は彼の名に望みを置くであろう」(18‐22節)
救い主キリストとして来られたイエスは
ご自分を神としてではなく
僕(しもべ)の立場をとり
争わず
どんな奇跡を行っても
人にご自分を宣伝させることもせず
「勝利の時」が来るまで
ただご自分の役目に忠実に歩まれました
そして、弱い人々を憐れみ
絶望している人には希望が与えられ
今日もわたしたち異邦人は
イエスの名に希望を置いて生きているのです
22節で悪霊に取りつかれた人が癒された時も
その業を素直に受け止めた人は
「この人はダビデの子ではないか」
すなわち救い主(メシヤ)ではないかと言いましたが
同じ業を見てもパリサイ人たちは
それを悪霊の頭ベルゼブルの力だと主張しました
こうしてイエスを信じる者と信じない者とは
相容れることなく
「人の子」イエスは常に冒とくされていました
それでも
「人の子に対して言い逆らう者はゆるされるであろう
しかし、聖霊に対して言い逆らう者は
この世でも、来るべき世でも、ゆるされることはない」(32節)
「聖霊に言い逆らう」とは
神の言葉を否定するということです
世の中にはサタンがいますから
わたしたちにはすぐに迷い(惑わし)が来て
何が正しいことなのか分からなくなってしまうのですが
その時、現状がよく見えていない人が
はっきりと目をさまして神の道を見つけるには
神の言葉を聞く信仰が必要です
その人の行動が正しければ
そこに起こる結果も良いものとなり
もし間違っているなら
悪い結果が伴う
善い人の口からは良い言葉が出て
悪い人の口からは悪い言葉が出る
「木が良ければ、その実も良いとし
木が悪ければ、その実も悪いとせよ
木はその実でわかるからである」(33節)
「おおよそ、心からあふれることを
口が語るものである」(34節)
人の言動には
その人の持つ考え方が現れてくるので
根本的な考え方が癒され
神の側へと変わっていかなければ
信仰信仰と言っても
何を信仰しているのか分からない状態となり
ただ惑いの中で迷走することになるでしょう
信仰が迷走し
真理をつかめないパリサイ人たちは
今度はイエスに対して
「先生、しるしを見せてください」と言いました(38節)
彼らはすでにたくさんの奇跡を見たのに
イエスがメシヤである証拠を示せというのです
そこでイエスは
「預言者ヨナのしるしのほかには
しるしは与えられない」とし
ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたように
人の子も三日三晩、大地の中にいると
「復活」について語られました
更には、「汚れた霊」について
一度それが追い出された人でも
また戻ってくることがある
しかもその時には
もっとたくさんの悪霊を連れてくるので
その人の状態は前よりも悪くなるのだと、、
このような話を
受け入れる人もあれば
受け入れられない人もあったでしょう
「主の僕」として人間の姿をしたイエスの言葉は
信じる人には神の言葉であり
信じない人には訳の分からない話です
また、46節からは
一般の人が大切にする血縁関係よりも
信仰でつながった信頼関係について
その重要性に言及し
わたしたち信仰者が
同じ神の御心を行う者として
その信仰が成長していくことを求めています
「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも
わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(50節)
<目次