今週のみことば


12月3日

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「イエスはたとえを用いて
彼らに多くのことを語られた
『種を蒔く人が種まきに出て行った
まいている間に、ある種は道端に落ち
鳥が来て食べてしまった
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち
そこは土が浅いのですぐ芽を出した
しかし、日が昇ると焼けて
根がないために枯れてしまった
ほかの種は茨の間に落ち
いばらが伸びてそれをふさいでしまった
ところが、ほかの種は
良い地に落ち、実を結んで
あるものは百倍、あるものは六十倍
あるものは三十倍にもなった
耳のある者は聞きなさい」
(マタイによる福音書13章3-9節)

イエスは大勢の群衆の前で
「たとえ」を用いた説教を始められます
なぜ彼らに対して「たとえ」で語るのかと弟子がたずねると
弟子たちには「天の国の秘密」を悟ることが許されているが
群衆にはそれが許されていないとの答えがありました
なぜなら彼らは
「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないから」(13節)
つまり、彼らには信仰がないので
何を見ても聞いても真理がわからない
これはイザヤ書6章9‐10節で預言されていることです

かつて多くの預言者や義人と呼ばれる人々は
いつかメシヤ(救い主)がくることを待ち続け
その姿を見て、その言葉を聞きたいと願いつつも
それはかないませんでした

しかし、イエスの弟子たちは
こうして実際にメシヤの姿を見て
その言葉を聞く幸いにあずかっている
それは本当に有難いことでした

その一方で
同じ機会が与えられても
信仰のない群衆には
「天国の秘密」はわからない

「持っている人は更に与えられて豊かになるが
持っていない人は持っているものまでも
取り上げられる」(12節)


「種蒔きのたとえ」については
18節から説明が始まります

「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ
悪い者が来て
心の中に蒔かれたものを奪い取る
道端に蒔かれたものとは
こういう人である
石だらけのところに蒔かれたものとは
御言葉を聞いて
すぐ喜んで受け入れるが
自分には根がないので
しばらくは続いても
御言葉のために艱難や迫害が起こると
すぐにつまづいてしまう人である
茨の中に蒔かれたものとは
御言葉を聞くが
世の思いわずらいや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで
実らない人である
良い土地に蒔かれたものとは
御言葉を聞いて悟る人であり
あるものは百倍、あるものは六十倍
あるものは三十倍の実を結ぶのである」(19‐23節)

「種」とは「神の言葉」と「信仰」です
いくら御言葉を聞いても
それを悟ることも信じることもなければ
種は発芽することもありません

また、一時的に熱心に見える信仰は根がないので
自分の思い通りでないことが起こると
すぐにつまづいてしまいます

そして、御言葉を聞いても
その人の心の中で
”世の思いわずらいや富の誘惑”が勝れば
御言葉が実ることもないのです

これらの人々は
神の言葉を受け入れることも信じることもできない人々ですが
もし神に対して良い思いがあれば
信仰の種はやがて芽を出し、育って
多くの実を結ぶでしょう

さらに24節からは
「毒麦のたとえ」が出てきます
ある人が良い種を畑にまいたが
敵が来て、その中に毒麦を蒔いて行った
そしてその毒麦は良い麦と一緒に育てられ
刈入れの時に毒麦はまとめて処分されるというのです

このたとえについては
弟子たちにはあとから説明がありました
世の終わりが来るまで
御国の子らも悪い者の子らも一緒に育つが
最後に悪い者はまとめて炉の中に投げ込まれるのだと

ただ、ここで問題なのは
わたしたちが生きている間には
ずっと何がしかの「敵」や「毒麦」がいて
そこから来る「悩み」は続くということ

そしてその「敵」とは
外部から来るものばかりではなく
自分の心の内側から起こって来る「思い」もあるので
これがなかなか厄介なのです

というのも人間は何か悪い思いが起こると
その思いに負けて心がゆがみ、卑屈になり
それを自分で変えたくても変えられない
どうしようもない現実に突き当ります
特に自分の思い通りにならないことが起こると
せっかく信仰しているのに・・・と
不満に思うこともあるでしょう
しかし、信仰とは
自分の思い通りになることが目的なのではなく
神の思い通りになることが重要なのだと
だから
今は神にお任せして前進しましょうと
その思いが変えられていかなくてはなりません
そのために必要なのが「信仰」です

31節からは
「からし種」と「パン種」のたとえが語られています
「種」はそれぞれ「信仰」を表していますが
いかに小さな信仰の種であっても
その人の中で大きくふくらんで行く時には
正しい道を歩むための大きな支えとなり
人の思いを変える役割を果たしてくれるのです

「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く
耳のある者は聞きなさい」(43節)


「父の国」とは「天国」のことです
そして44節からは「天の国のたとえ」として
キリストの救いの招きにあずかる者を
「宝」「良い真珠」「良い魚」に例えて語り
その後、イエスは故郷へと帰って行かれました

そして会堂で教えておられたのですが
それを聞いた人々は
「この人は大工の息子ではないか」
と侮って信じようとしませんでした

「このように人々はイエスにつまづいた
イエスは『預言者が敬われないのは
その故郷、家族の間だけである』と言い
人々が不信仰だったので
そこではあまり奇跡をなさらなかった」(57‐58節)



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