今週のみことば


12月17日

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「ときに、パリサイ人と律法学者たちとが
エルサレムからイエスのもとにきて言った
『あなたの弟子たちは
なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか
彼らは食事の前に手を洗っていません』
イエスは答えて言われた
『なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって
神のいましめを破っているのか』」
(マタイによる福音書15章1-3節)

イエスが多くの奇跡の業を行われている頃
パリサイ人や律法学者たちは
弟子たちのことでイエスに文句を言いに来ました
彼らは食事の前に手を洗っていないというのです
この風習は衛生的な意味ではなく
「汚れる」という宗教的な意味を持っており
その「昔の人の言伝え」を
あたかも「神の律法」であるかのように
彼らは考えていました

これに対してイエスは
律法学者たちの言う「言伝え」は
むしろ神の言葉に反しているのだと
具体例を挙げて反論したのち
以下のように告げました
「聞いて悟るがよい
口にはいるものは人を汚すことはない
かえって、口から出るものが
人を汚すのである」(10‐11節)


この言葉を聞いても
パリサイ人たちはイエスを信じようとはしなかったので
そんな彼らの様子を
「神を見る(知る)ことのできない盲人」と例え
神の本質が見えない人が、同じく見えない人を導けば
二人とも穴に落ちてしまうと述べるのです

しかし、この時点でペテロは
イエスの言葉の意味が分かっていませんでした
そこで質問すると・・・

「あなたがたもまだわからないのか
口にはいってくるものは
みな腹の中にはいり
そして、外に出て行くことを知らないのか
しかし、口から出て行くものは
心の中から出てくるのであって
それが人を汚すのである
というのは、悪い思い、すなわち
殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、そしりは
心の中から出てくるのであって
これらのものが人を汚すのである
しかし、洗わない手で食事することは
人を汚すのではない」(16‐20節)


イエスはパリサイ人たちが
「神」をあがめる言葉を日々使いながらも
実はその心が神から離れていることをご存じです
それはイザヤによって預言されていました
「この民は、口さきではわたしを敬うが
その心はわたしから遠く離れている
人間のいましめを教えとして教え
無意味にわたしを拝んでいる」(8‐9節)


パリサイ人たちは
いかにも信仰がありそうに
外観をつくろうことに熱心な偽善者でした
そのため、人の作った「いましめ」を
あたかも神の律法であるかのように伝え
それに従わない人をそしる(悪口をいう)のです

人が食べるものは、どんなものでも
お腹を通って外に排出されるだけで
それによって人が汚されることはありません
しかし
人の口から出る悪い言葉は
その人の(神に反する)悪い心から出るものであり
これが人を汚します

「人の口は
心からあふれ出ることを語るのである」

(ルカ6章45節参照

こうしてパリサイ人たちは
神の本質を見ることができなかったので
イエスをメシアと信じることができず
その不信仰の実態が
言葉になってあふれています

その一方で
22節からカナンの女が登場するのですが
カナン人といえば
イスラエルの神への信仰からは遠い存在でありながら
彼女は自分の娘を救ってもらおうとして
必死でイエスにすがりつきます

彼女は自分がカナン人であるため
神の祝福を受ける立場ではないと知りつつ
それでもわずかな恵みにでもあずかりたいとの一心で
子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずをもらえるはずだ
と言うのです

この時のイエスの言葉かけは
女性に対して冷たいと思われるものでしたが
このやりとりによって
心にあふれる思い(信仰)が言葉になり
彼女は幸いを得るのでした

「そこでイエスは答えて言われた
『女よ、あなたの信仰は見上げたものである
あなたの願い通りになるように』
その時に、娘はいやされた」(28節)


自分を信仰的に立派だと思っているパリサイ人と
自分を取るに足らない存在と認識し
どんなに失礼な言い方をされても
なおも神の救いを心から求めるカナン人の女性
ここは対照的な両者の信仰感が
よく分かる箇所となっています

その後イエスは
ガリラヤ湖のほとりに行き、山に登っていました
そして、そこに大勢の群衆が病人を連れてきて
あらゆる病の人々がいやされていきました

また男だけでも4千人いる群衆に対して
七つのパンと小さい魚だけで
十分にお腹が満たされる奇跡も行われました
こうして信じる人はみな
幸いを得ていったのです

この15章は、「信仰」について
改めて考えさせられるところです
わたしたちが信仰をする意味は
どこにあるのでしょうか

ある宗教で教える「バチ」というものは
キリスト教にはありません
クリスチャンは
バチが当たりたくないから
不幸になりたくないから信仰する
というのではなく
人生の試練を
神と共に乗り越えながら
神の用意してくださる山の頂上を目指して
そこは必ず幸いなところだと信じ
希望をもって進んでいきたいのです

山に登るに当たっては
どうしても通らなければならない辛い道もあって
そこを避けて通るわけにはいかないので
そこも祈りながら踏み出します

そして
これまでの道のりを振り返り
今こうして生かされていることに感謝して
あらためて神をあがめることにより
その信仰がわたしたちを
さらに強くしてくれるのです

信仰は
見せかけの熱心で量られるものではありません
その心に神への信頼、すなわち
イエスのみことばに従う心があるのかどうか
そこをいつも見られていることが
「律法の行い」にこだわるパリサイ人たちには
どうしても理解できなかったのです



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