今週のみことば
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12月24日
「パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて
イエスを試み
天からのしるしを見せてもらいたいと言った
イエスは彼らに言われた
『あなたがたは夕方になると
”空が真っ赤だから、晴だ”と言い
また明け方には
”空が曇って真っ赤だから、きょうは荒れだ”と言う
あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら
時のしるしを見分けることができないのか
邪悪で不義な時代は、しるしを求める
しかし、ヨナのしるしのほかには
何のしるしも与えられないであろう』
そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた」
(マタイによる福音書16章1-4節)
パリサイ人とサドカイ人は
各々違う考えを持ち、対立する存在ですが
イエスを迫害することに関しては行動が一致していました
そこで彼らは
「天からのしるし」すなわち
イエスがメシア(救い主)である証拠を見せろというのです
これに対してイエスは
天気予報の例を出し
”夕焼けは晴れ、朝焼けは雨”と
予想することを知っていながら
なぜ「時のしるし」を見分けられないのか
と問い返しました
実際にメシアを目の前にしながら
そして多くの奇跡を見聞きしながらも
今がメシアが来るその時なのだと理解しようともしない
そしてなお「しるし」を示せというパリサイ人たちは
心の中に自分たちの思想という「パン種」を持っているので
その思いが邪魔をして
真実を受け入れることができませんでした
そこでイエスが「しるし」について言及したのは
「ヨナのしるし」です
(12章40節以降参照)
異教徒であるニネベの町の人々は
ヨナの話を聞いて悔い改め
神のあわれみによって救われましたが
ヨナが魚の腹の中に三日三晩いたように
やがて現れるメシアも
三日三晩大地の中にいることになる
つまり、十字架にかけられて死に
三日後によみがえることを示していました
これらの話のあと
イエスは弟子たちに対して言われました
『パリサイ人とサドカイ人とのパン種を
よくよく警戒せよ』(6節)
ところが、この意味が分からない弟子たちは
自分たちがパンを持って来なかったことについて
論じ始めました
すでに5つのパンと2つの魚で5千人が養われ
また7つのパンで4千人が養われた奇跡を体験しても
彼らはなおパンの心配をしているのです
「イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時
弟子たちにたずねて言われた
『人々は人の子をだれと言っているか』」(13節)
人々はイエスのことを
バプテスマのヨハネやエリヤ、エレミヤ
あるいはほかの預言者だなどと言っていましたが
『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』
と、弟子たちに問われると
シモン・ペテロが答えて言いました
『あなたこそ、生ける神の子キリストです』
すると、イエスは彼に向って言われた
『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである
あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく
天にいますわたしの父である』」(16‐17節)
さらにイエスは続けて
この信仰の岩の上に
ご自分の教会を建てることと
ペテロに
「天国のカギ」(キリストの福音)を授けることを
宣言するのです
ただ、この時には
イエス=キリスト(メシア)であることは
誰にも言ってはならないと口止めされました
「この時から、イエス・キリストは
自分が必ずエルサレムに行き
長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け
殺され、そして三日目によみがえるべきことを
弟子たちに示しはじめられた」(21節)
この話を聞いて驚いたペテロは
そんな事があってはなりません!と
イエスをいさめるのです
人間の情で考えれば当然そう思うでしょう
しかし、これは
イエスご自身が語られていることですから
それが不都合なことであっても
信仰に立つ者は受け入れなくてはなりません
ですから、イエスはペテロを叱ります
『サタンよ、引き下がれ
わたしの邪魔をする者だ
あなたは神のことを思わないで
人のことを思っている』(23節)
「それからイエスは弟子たちに言われた
『だれでもわたしについてきたいと思うなら
自分を捨て、自分の十字架を負うて
わたしに従ってきなさい
自分の命を救おうと思う者はそれを失い
わたしのために自分の命を失う者は
それを見いだすであろう」(24‐25節)
パリサイ人やサドカイ人が
それぞれの思想を持っているように
人はみなそれぞれの「思い」を持ち
知らないうちに
自分の「思い」に支配されています
そのため
人の言葉には、独善的でいい加減なものもあり
聖書のみことばも
人の思いによって受け止め方が変わっていくのです
だからこそ
もしわたしたちが
天国のカギである
キリストの福音に従って生きようと思うなら
まず自分の思いを捨てて
その価値観や生き方を神に合わせ
開かれた道を神と共に進むという
信仰を持たなければなりません
そして
その信仰の根底にあるのは
どんな時にも神の救いがあるという「希望」です
自分の人生ああなりたいこうなりたいと
さまざまな思いがあるとしても
神を自分色に染めて考えるなら
その神は、もはや神ではないのです
信仰者として歩んできたクリスチャンは
各々これまでの人生に
少なからず神の助けを体験してきたことでしょう
その体験が信仰に生きていれば
どんな時にも「希望」を捨てることはありません
この世界は不思議に満ちていて
人の思いとは全く違う方向へと
さまざまなことが展開していきますが
先の見えない未来に向けて
多くの人が不安を感じる中
信仰に立つクリスチャンの強みは
いつも「希望」があることなのです
<目次