今週のみことば
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1月22日

「このメルキゼデクはサレムの王であり
いと高き神の祭司であったが
王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し
それに対して
アブラハムは彼に
すべての物の十分の一を分け与えたのである
その名の意味は、第一に義の王
次にまたサレムの王
すなわち平和の王である
彼には父がなく、母がなく、系図がなく
生涯の初めもなく、生命の終わりもなく
神の子のようであって
いつまでも祭司なのである」
(ヘブル人への手紙7章1‐3節)

5章から出てきた
「メルキゼデク」という大祭司について
この章では詳しく説明されています
メルキゼデクは創世記14章18節に登場し
戦いに勝利したアブラハムを祝福しています
その時アブラハムはメルキゼデクに対して
戦いで得た物の十分の一をささげました
サレムの王として
人間の王のように登場するメルキゼデクですが
アブラハムは彼に対して
神にするものである
十分の一のささげものをしています
その意味については
3節に記されているように
彼は人間ではなく、神であったからです

なお、サレムとは「平和」を意味し
サレムの地は後に
「神」を意味するエルがついて
エルサレムと呼ばれるようになりました

「そこで族長のアブラハムが
最も良いぶんどり品の
十分の一を与えたのだから
この人がどんなにすぐれた人物であったかが
あなたがたにわかるであろう」(4節)


こうして
メルキゼデクという祭司は
人間の祭司と同じではないこと
そして
メルキゼデクに等しい祭司としてのイエスが
ご自身をいけにえとしてささげて
万民に対して
完全な救いの道を開いてくださった事を
この章では教えているのです

その前に、5節以降には
十分の一のささげものについての記述があります
それは本来
神に対してささげるものですが
レビ族の中で祭司職にあった人々は
十分の一を受け取ることが
律法によって定められていました
しかし
メルキゼデクはレビ族ではないにも関わらず
アブラハムから十分の一を受け取って
祝福のお祈りをしています

「言うまでもなく
小なる者が大なる者から祝福を受けるのである
その上、一方では死ぬべき人間が
十分の一を受けているが
他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が
それを受けている」(7‐8節)


このように
アブラハムにとってメルキゼデクは「大なる者」であり
いつかは死ぬレビ族が十分の一を受けている一方で
永遠に死ぬことのない者とされたメルキゼデクも
それを受けています

また、レビ族は
アブラハムの孫ヤコブの子レビの子孫で
アブラハムがメルキゼデクにささげものをした時には
当然まだ生まれていません
それを10節で
「レビはまだこの父祖の腰の中にいた」と表現し
このつながりで考えれば
十分の一を受け取る立場のレビでさえ
アブラハムを通じてメルキゼデクに
十分の一を納めたことになると記しています

そして今や
「メルキゼデクに等しい祭司」として
主イエスが登場し
律法によらない救いの望みが現れてきました
本来ならレビ族から出るべき祭司が
やがてユダ族の中から出てくることを
モーセは律法の中で何も語っていません
また
レビ族の祭司職制度によって
人間が完全な状態に達することができたなら
別の祭司が立てられる必要はなかったはずです
ところが実際には
祭壇の奉仕にかかわったことのないユダ族から
主イエスが生まれ
「彼は、肉につける戒めの律法によらないで
朽ちることのないいのちの力によって
立てられたのである
それについては
『あなたこそは、永遠に
メルキゼデクに等しい祭司である』と
あかしされている」(16‐17節)


その結果、以前の律法は
弱く無益なために廃止されました
つまり
それまで祭司が幕屋において
民や自分のために
動物の血を流す捧げものの儀式をして
罪の許しを乞うていたことも
”律法が何ひとつ完全なものにしなかった”として
意味のないものとされたのです

これは
人間は弱く
律法を完全に守ることはできないので
律法の行いでは救われないことを表しています
しかし、他方では
”もっと優れた希望”がもたらされました
これが主イエスによる救いであり
わたしたちはこれによって
神に近づくことができる者となりました

更には
この救い主の出現は
「あなたこそ永遠の祭司である」という
神の誓いによるものであり
レビ族の祭司のように
神の誓いによらない祭司とは立場が違います

「このようにして
イエスは更にすぐれた契約の保証と
なられたのである」(22節)


しかもイエスは
永遠に生きておられる神なので
人間の祭司のように
寿命が来て次々変わっていくこともなく
「彼は、いつも生きていて
人々のためにとりなしておられるので
彼によって神に来る人々を
完全に救うことができるのである」(25節)


また
主イエスは、聖にして、悪も汚れもなく
罪人とは区別され
もろもろの天より高くされている大祭司であり
他の大祭司のように
自分の罪や民の罪のために
日々いけにえを捧げる必要はありません
なぜなら
完全に清いご自分の身を
十字架上で一度だけささげられたからです

かつての律法は
弱さを持った人間を
大祭司として立てていましたが
律法の後になされた神の誓いのみことばでは
永遠に完全な御子イエスを大祭司としたのです

補足ですが
9章9節では
「この幕屋というのは
今の時代に対する比喩である」
と記されています

幕屋の奥には大祭司が年に一度だけ入り
自分と民の過ちのために
ささげる血を持って行くのですが
この儀式が続いている間は
救い主がまだ出現していないということになります
しかも
このようにいけにえがささげられても
礼拝をする者の良心を
完全にすることはできません

しかし今や永遠の大祭司、主イエスが現れ
動物の血によらず、ご自身の血によって
一度聖所に入って
永遠のあがないを成しとげられました

かつては動物の血によって
その身を清めようとしていたことを思えば
「永遠の聖霊によって
ご自身を傷なき者として
神にささげられたキリストの血は
なおさら、わたしたちの良心を清めて
死んだわざを取り除き
生ける神に仕える者としないであろうか」
(9章14節)


人間は弱く
それに対して、神は完全です
人の救いもまた完全な神によらなければならず
自分の行いに頼って救われようというのは無理なこと
だからこそ
弱い人間のためにキリストの救いがあり
その救いにあずかる者は
神に近づくことで
正しい道へ導かれる幸いを
得ることができるのです


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