今週のみことば


1月29日

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「以上述べたことの要点は
このような大祭司がわたしたちのためにおられ
天にあって大能者の御座の右に座し
人間によらず主によって授けられた
真の幕屋なる聖所で仕えておられる
ということである」
(ヘブル人への手紙8章1‐2節)

7章では
”人間ではない大祭司”の存在と
それが主イエスであるとの説明がなされていました
この大祭司は
神が人間の姿をもって現れた方であり
人間が造った幕屋に住んでいるわけではなく
天にあるところの聖所において
「救い主」としての立場を全うしておられます

ただ、聖書には
「神は唯一」と記されながら
主イエスは
”天にあって大能者の御座の右に座し”
と記されているため
神とは別の存在であるかのように勘違いしそうになるのですが
以下のみことばを読む時には
イエス・キリスト=神であることがわかります

そして
唯一の神が
救い主としての「職分」を持っていることを示すために
あたかも別人格が存在するような書き方になっていることを
わたしたちは理解する必要があるのです

「御子は神の栄光の輝きであり
神の本質の真の姿であって
その力ある言葉をもって万物を保っておられる
そして、罪のきよめのわざをなし終えてから
いと高きところにいます大能者の右に
座につかれたのである」
(ヘブル人への手紙1章3節)

「キリストにこそ
満ち満ちているいっさいの神の徳が
かたちをとって宿っており」
(コロサイ人への手紙2章9節)

「キリストは、神の形であられたが
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり
人間の姿になられた」
(ピリピ人への手紙2章6‐7節)


むかしモーセが山で示された律法によって
幕屋は建てられ
大祭司が任命されて
そこで供え物をささげてきました
それは
「天にある聖所のひな型」にすぎず
人間の大祭司よりはるかに優れた務めを担う
救い主イエスが現れ
「更にまさった契約」の仲介者になられたため
モーセの律法は「古い契約」となりました

「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら
あとのものが立てられる余地はなかったであろう」
(ヘブル人への手紙8章7節)


そもそも「初めの契約(モーセの律法)」を
人々が完全に守れていたなら
「あとのもの(新しい契約)」は必要なかったはずです
しかし、残念ながら律法には欠けたところがあり
(完全に守ることができるようなものではなかった)
なおかつ
イスラエルの民も神に忠実ではありませんでした

「神は彼らを責めて言われた
『主は言われる、見よ
わたしがイスラエルの家およびユダの家と
新しい契約を結ぶ日が来る』」(8節)


こうして神は
イスラエルの家と「新しい契約」を結びます
そして
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(10節)
との祝福の約束は
「主イエスの福音」としてやがて異邦人にも及び
万民に救いの道が開かれていったのでした

また
主イエスの名による洗礼によって
人間の罪は許され
もう二度と罪には問われないというのです

かつては罪の許しのために
何度も幕屋でいけにえを捧げていた時代と違って
キリストは一度だけご自分がいけにえとなり
人が主イエスの名で洗礼を受けるのも一度だけで
何度も受けるということはありません

「わたしは、彼らの不義をあわれみ
もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」(12節)


このように
主イエスの名による救いの道が開かれた今
モーセの律法は古いものとされました
「年を経て古びたものは、やがて消えていく」(13節)

昔も今も
集団生活の秩序を保つために
「律法」あるいは「法律」といった規定は必要ですが
ここでは
「律法の行い」によらない「人の救い」を教えており
一方的な神の愛による救いの道があることを説いています
そして
救われた後の人生は
自分の好き勝手に生きればいいわけではありません

「このキリストが
わたしたちのためにご自身をささげられたのは
わたしたちをすべての不法からあがない出して
良いわざに熱心な選びの民を
ご自身のものとして聖別するためにほかならない」
(テトスへの手紙2章14節)

救われたということは
キリストのものとなった(結ばれた)のですから
その後の人生も
神をあがめて
サタンの惑わしにのらないように
正しい道を見極めて歩むことが大切です

また
信仰生活においても
人の作った「律法」に心が惑わされ
本当の神が分からなくなることもありますから
わたしたちは常に
神の一方的な愛によって救われていることを忘れず
その愛にならう生き方を求めていきたいものです



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