今週のみことば


2月5日

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「さて、初めの契約にも
礼拝についてのさまざまな規定と
地上の聖所とがあった
すなわち、まず幕屋が設けられ
その前の場所には
燭台と机と供えのパンとが置かれていた
これが、聖所と呼ばれた
また第二の幕の後ろに、別の場所があり
それは至聖所と呼ばれた」
(ヘブル人への手紙9章1‐3節)

「初めの契約」すなわち
モーセを通して与えられた古い律法には
礼拝についての決まり事と
地上における聖所の造り方が細かく記されています

それによると
祭司たちは
幕屋の前の場所「聖所」で礼拝をし
幕屋の奥「至聖所」には
年に一度だけはいって
自分自身と民の罪の許しのために
動物の血をささげることが定められていました

しかし
この地上における幕屋は
天における本当の幕屋の比喩であり
そこで行われる儀式によって
礼拝をする者の良心を完全にすることはできなかったのです

「それによって聖霊は
前方の幕屋が存在している限り
聖所にはいる道はまだ開かれていないことを
明らかに示している
この幕屋というのは
今の時代に対する比喩である
すなわち
供え物やいけにえはささげられるが
儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない
それらは、ただ食物と飲み物と
種々の洗いごとに関する行事であって
改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない」(8‐10節)


このように
「肉の規定」にすぎなかった「初めの契約」は
キリストの出現によって
やがて必要のないものになります

キリストは恵みの大祭司として来られ
人間の造った地上の幕屋ではない
天の完全な幕屋を通り
動物の血ではなくご自身の血によって
一度だけ聖所にはいって
永遠のあがないを全うされたのでした

初めの契約の規定においては
動物の血が
汚れた者をきよめるために使われた事を思うと
キリストの血による清めは
どれほど大きな力を持っていることでしょう

「永遠の聖霊によって
ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は
なおさら、わたしたちの良心を清めて
死んだわざを取り除き
生ける神に仕える者としないであろうか」(14節)


そして
キリストの血による罪のきよめ(洗礼)は
わたしたちの良心を清めて
間違った生き方を取り除き
この生ける本当の神に仕えさせるためにあります

ですから
この救いにあずかったからには
それまでの自分の考えから心を変えられて
キリストの心にならう者となるように
求められているのです

こうして
地上の幕屋において罪の許しを乞う時代は過ぎ
天の幕屋における永遠の罪の許しが
万民に与えられる時代となりました
それは
キリストが
新しい救いの契約の仲介者となられたからです(15節)

初めの契約の元では
罪は清められないばかりか
さらに積み重ねられることとなりましたが
キリストの血が流されることによって
新しい契約が有効になりました

そもそも
罪のきよめに血が必要であることは
律法によって定められていることです

「血を流すことなしには
罪のゆるしはあり得ない」(22節)


この律法に従い
地上の幕屋においては
動物の血をもって清められていました
しかし
天の聖所は
”さらにすぐれたいけにえ”で清められなければならず
そのためにキリストは
世の終わりに一度だけ現れ
多くの人の罪を負うために
十字架にかけられたのです

「キリストもまた
多くの人の罪を負うために
一度だけご自身をささげられた後
彼を待ち望んでいる人々に
罪を負うためではなしに
二度目に現れて
救いを与えられるのである」(28節)


人間はどんな人でも一度だけ死に
死んだ後に裁きを受けることが定まっていますが(27節)
キリストの血による救い(洗礼)を受けた人は
罪が許された者となり
キリストが二度目に現れてくださる「再臨」の時には
その救いは完成されて
永遠に神と共にある幸いを与えられるのです



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