今週のみことば


2月12日

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「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず
そのものの真のかたちをそなえているものではないから
年ごとに引き続きささげられる同じようないけにえによっても
みまえに近づいて来る者たちを
全うすることはできないのである」
(ヘブル人への手紙10章1節)

「律法」は
やがて救い主が現れる前の段階にあるもので
律法に定められた方法でいけにえをささげても
人間を完全な者にすることはできませんでした

もしそれができたのなら
何度も罪の許しを請う必要はなく
毎年いけにえを捧げることもなかったはずです
しかし実際には
人の罪がなくなることはなかった
つまり
動物の血では
罪を取り除くことはできなかったのです

それについては
神が肉体をもってキリストとしてこの世に来られた時
「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで
わたしのために、からだを備えてくださった」(5節)

と、語られているように
動物の血ではなく
完全に清いキリストの血によって
この世に罪の許し(救い)がもたらされることは
聖書に記された神の御旨でした
「見よ、わたしにつき
巻物の書物に書いてあるとおり
見よ、御旨を行うためにまいりました」(7節)


こうして
後から出現した救いの約束を立てるために
前にあった律法は廃止されました
「この御旨にもとづき
ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって
わたしたちはきよめられたのである」(10節)


そして
キリストによって「聖なる者」とされた人たちは
永遠に「完全な者」となり
心の中に神の律法を書きつけることで
もはや神から罪に問われることはない者とされたのです
「これらのことに対する許しがある以上
罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」(17節)

そういうわけですから
イエスの血による洗礼を受け
キリストと結ばれたクリスチャンは
「聖所」にはいることができる者となり
新しい「生きた道」を歩む者となりました

そして
このような幸いを得た後は
どういう心がけで歩むべきかについては

「心はすすがれて良心のとがめを去り
からだは清い水で洗われ
まごころをもって信仰の確信に満たされつつ
みまえに近づこうではないか」(22節)

さらには
「愛と善行とに励むよう互いに努め」(24節)
キリストが再び来られるその日まで
希望をもって
お互いが励まし合っていくよう勧めています

なぜなら
わたしたちがこの世に生きているうちは
サタンの惑わしがあって
不信仰に陥る恐れがあるからです

26節以降には
故意に罪を犯し続ける人や
神を冒とくする者について
「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」と
記されていますが
救いにあずかった後のわたしたちの心が
どこに向いていくのか
自らの信仰を省みることは大切です

この救いにあずかった後
なお様々な苦難に見舞われるとしても
わたしたちは心が弱って
滅びの道を歩んではなりません

「だから、あなたがたは
自分の持っている確信を放棄してはいけない
その確信には大きな報いが伴っているのである
神の御旨を行って約束のものを受けるため
あなたがたに必要なのは、忍耐である」(35‐36節)


そもそも、このキリストの血による救いは
人の正しい行いではなく
神にあわれみによって与えられたものでした
(テトスへの手紙3章5節)

神を知る前は罪深い者であったとしても
主イエス・キリストの名による洗礼と聖霊を受け
きよめられ、義とされたのです
(コリント人への第一の手紙6章11節)

だからこそ、クリスチャンは
神の栄光を現す生き方をしなくてはならない
つまり、再び罪深い状態に戻ってはならないのです
(コリント人への第一の手紙6章20節)

しかし、世の中の人々は
神を知らず、信じることをせず
お金やモノや人に望みをおいて
そういうものの奴隷となっています
そのため
ますます心がくもり
真実を見分けることができません
「彼らの場合、この世の神が
不信の者たちの思いをくらませて
神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを
見えなくしているのである」
(コリント人への第二の手紙4章4節)


そういうわけですから
わたしたちがこの世にあって
真実を見極め
正しく生きていくためには
どんな時も神につまづかず
信仰を持ち続けることが大切なのです

「わが義人は信仰によって生きる
もし信仰を捨てるなら
わたしのたましいはこれを喜ばない」
(ヘブル人への手紙10章38節)


この福音の言葉は
キリストの光に
心が照らされることによってわかるものです
この世の闇にひるんで
滅びに至ることがありませんように
「信仰に立って命を得る者」として
最後まで従っていきましょう(39節)



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