今週のみことば
2月19日
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「さて、信仰とは
望んでいる事がらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章1節)
ここでは、まず
「望んでいる事がら」の意味を
改めて知る必要があります
これは
人の願望を意味するのではなく
神の「祝福の約束」について述べており
まだ見ぬ天国に
希望を置いて生きることが
クリスチャンとしての生き方であると教えているのです
「目に見える望みは望みではない
なぜなら
現に見ていることを
どうして、なお望む人があろうか
もし、わたしたちが見ないことを望むなら
わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」
(ローマ人への手紙8章24‐25節)
「望み」と聞くと
人はすぐに
お金や名誉といったものを思い浮かべるかもしれません
そもそも信仰の目的が
それらを手に入れることになっている場合もあり
熱心に祈れば自分の願いが叶うと信じる信仰もありますが
聖書の言う「望み」は
そういう目に見えるものではなく
目に見えないものを指しています
このように
ヘブル人への手紙11章は
まず、「信仰とは何か」から始まり
2節には
「昔の人たちは
この信仰のゆえに神に認められた」と続き
あとは、聖書に名前の残る信仰者たちについて
彼らの何が神に正しいとされたのかが
多くの人の例を挙げながら記されています
そして
彼らに共通するのが
自分の人生を神にゆだね
「祝福の約束」を信じて
神の命令に従ったところです
自分の思いではなく
神のご計画を第一とした
その「信仰」が神に認められたのでした
信仰を持っていたがゆえに
神のお告げで箱舟を山に造ったノア
神のご計画により
年老いてから子どもを与えられたアブラハムは
その子イサクをささげよとの命令にも従おうとしました
出エジプトの指導者とされたモーセは
神の命令に従って数々の危機を乗り越え
カナンの地を目前にしながら
そこで使命を終えることを受け入れました
難攻不落と言われたエリコの城壁は
神の言葉に従って
イスラエルの人々が周りを7日間回ったあと崩れ
そこでイスラエル人を助けた娼婦ラハブは
その信仰によって自らも助けられたのでした
こうして聖書に登場する昔の人々はみな
自分の思いとは違うところに導かれても
その開かれた道に従って歩みました
人間的に考えれば
そこには疑問や
理不尽と思えることもあったと思われますが
神への信頼が彼らをその道に進ませ
結果として
その信仰が神に喜ばれ、認められたのです
しかし、それほどの信仰を持っていた彼らでも
「約束のもの」は受けていませんでした
それは「キリストによる救い」です
「さて、これらの人々はみな
信仰によってあかしされたが
約束のものは受けなかった
神はわたしたちのために
さらに良いものをあらかじめ備えてくださっているので
わたしたちをほかにしては
彼らが全うされることはない」(39‐40節)
キリストが出現する前の時代の信仰者には
まだ救いの道が開かれていなかったので
信仰は認められても
彼らは完全な状態に達することはできませんでした
その一方で
わたしたちには「さらに良いもの」としての
「キリストの救い」が与えられており
罪あるこの身が救われて
やがてキリストが再び来られるご再臨の時には
完全な状態となり
天国に引き上げられることが約束されています
このヘブル人への手紙では
人の正しい行いによらないキリストの救いについて
繰り返し説かれており
何の功績もなくても
その救いにあずかることのできるわたしたちが
いかに幸いであるかを改めて教えられます
ただ、救いにあずかった後も
わたしたちの心にはなお「自分の思い」が残り
それが神の言葉を聞くことの
さまたげになることもあるでしょう
この世に生きる限り
わたしたちはサタンの惑わしに翻弄され
間違った道に進みかねないので
信仰によって正しい道に進むことが必要です
それでも
わたしたちには自分の理想があって
その実現を願い祈るとしても
目先の願いが叶うことが
将来の幸せにつながるのかどうか
人間にはそこが分かりません
幸せを求めながらも
滅びに向かって行くかもしれないし
人間の思いや計画とは
実に危ういものです
一方、神の道は
進んでみて初めて意味が分かることも多く
信仰を持って進まなければ
神の働きを見ることもできません
ただ
信仰していると
人生の転機となる体験(奇跡)が与えられ
後にふりかえった時に
もしあの時あの事がなければ
自分は死んでいたかもしれないと
改めて神の守りの内にあることを
実感することもあるでしょう
そして
その体験は信仰の元となって
わたしたちが神の道を歩む助けとなるのです
キリストを迫害する者から一転し
宣教する者へと変えられたパウロは
神の言葉に従い
そこから人生が180度変わりました
わたしたちは迷いながらでも
信仰に立って歩むことで
神の祝福の約束を継ぐ者としての
幸いな道を歩むことができますから
祝福の約束が成就する天国に望みを置いて
神の証人としての歩みを
着実に進めていきたいものです
<目次