今週のみことば


3月19日

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「わたしの兄弟たちよ
わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに
分け隔てをしてはならない」
(ヤコブの手紙2章1節)

この章では、まず
お金持ちと貧しい人を差別してはならないことを
具体的に示し
「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ
神を愛する者たちに約束された御国の
相続者とされたではないか」(5節)

と、語っています

ヨブ記34章19節においては
「(神は)身分の高い者をひいきすることも
貴族を貧者より尊重することもないお方
御手によってすべての人は造られた」

さらに
コリント人への第一の手紙1章27‐29節では
「神は、知者をはずかしめるために
この世の愚かな者を選び
強い者をはずかしめるために
この世で身分の低い者や
軽んじられている者
すなわち、無きに等しい者を
あえて選ばれたのである」

とあるように
神は、身分の高い人をひいきすることはなく
むしろ何も持たない、力のない者を選んで
神の国を継ぐ者としてくださいました
「それは、どんな人間でも
神のみまえに誇ることがないためである」


すべての人は神の創造物であり
どんな人も神の前では同じ人間です
ですから、人間に上も下もないし
もちろん差別もしない
それが神の心であり
クリスチャンは
神のみことばを第一として信頼し
その心にならう歩みをしていくわけですが
自分は信仰していると自負しつつも
実際には
人の立派な外観に
心惑わされることもあるかもしれません
そのため
このヤコブの手紙では
信仰には「行い」が必要であると説いています

「わたしの兄弟たちよ
ある人が自分には信仰があると称していても
もし行いがなかったら
なんの役に立つか
その信仰は彼を救うことができるか」(14節)


ここでは
困っている人を助ける慈善の行いについて述べており
”行いの伴わない信仰は死んだもの”
と記されています
つまり
神のみことばを聞いても
それを行わない人の信心は空しい
これに反して、実際に行う人は
”その行いによって祝福される”と
1章25節には記されていました

このように
「人を分け隔てしないこと」
「あわれみのある行い」といった
神の心に習う行いは
世の中にあっても「善行」とされるものです
ただ
これが「信仰の行い」のすべてではありません

クリスチャンに求められているのは
「みことばを聞いて行うこと」
つまり、神の御旨に従うということが
「信仰の行い」なのです

この具体例として
21節以降に
アブラハムがイサクをささげた事例があげられており
「アブラハムの信仰がその行いと共に働き
信仰が行いによって完成された」
と説明されているように
自分の思いとは全く違う辛い出来事があっても
神を信頼して(信仰を持って)進んでいく
その行いが「信仰の行い」であり
1章においては
その時に必要なのは「忍耐」だと記されていました

神は何も持たない無力な者を選んで
天国を継ぐ者としてくださいました
その中には
実際にはお金や地位を持った人もあるでしょう
しかし
どんなに世のものに富んでいる人でも
それが幸せの元ではないと
そして自分は無力であると
知っている人もあります

このように
神に選ばれた「世の貧しい人」とは
文字通り何も持っていない人もあれば
神を知らず迷っている人
あるいは
神の前に無になれる素直な心を持っている人
色々な人があると思われます

人生には様々な問題があり
人は自分の知恵で何か色々しようとしますが
その考え方の基はどこにあるのでしょうか
すべての正しさの基準は神にあり
そこにはすべての良いものが満ちています

ですから
クリスチャンは
主イエスを好きになって
どんな時も信頼していくこと
そして
主イエスに導かれる日々を良しとして
幸いだと思うことが大切です

人の知恵ではとうてい解決できないことが
神の導きによって幸いに結びつく
そんな助けが必ずあると信じ
今自分がするべきことは何かを教えられて
前を向いて
勇気を出して
進んでいきましょう
自分の弱さに負けない
この「信仰の行い」が
わたしたちを幸いへと導いてくれるのです

「人が義とされるのは行いによるのであって
信仰だけによるのではない」(24節)

「霊魂のないからだが死んだものであると同様に
行いのない信仰も死んだものなのである」(26節)




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