今週のみことば


6月25日

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「わたしたちが神の子と呼ばれるためには
どんなに大きな愛を父から賜ったことか
よく考えてみなさい
わたしたちは、すでに神の子なのである
世がわたしたちを知らないのは
父を知らなかったからである
愛する者たちよ
わたしたちは今や神の子である
しかし、わたしたちがどうなるのか
まだ明らかではない
彼が現れる時、わたしたちは
自分たちが彼に似る者となることを知っている
そのまことの御姿を見るからである
彼についてこの望みを抱いている者は皆
彼がきよくあられるように、自らをきよくする」
(ヨハネの第一の手紙3章1‐3節)

この章では
キリストの救いを受けて「神の子」となったクリスチャンが
「神の子」としてふさわしい生き方をするために
どのようにふるまうべきかが記されています

今はまだ滅びゆく肉体を持ったわたしたちですが
キリストご再臨の時には
この体も「キリストに似る者」とされるわけですから
それにふさわしく
自らも清くあることを求めていかなくてはなりません

御子イエスには罪がなく
御子のうちにいつもいる人は罪を犯さない
また、義を行う人は
御子と同じように正しい人です

「すべて神から生まれた者は罪を犯さない
神の種が
その人のうちにとどまっているからである
また、その人は神から生まれた者であるから
罪を犯すことができない
神の子と悪魔の子との区別は
これによって明らかである
すなわち、すべて義を行わない者は
神から出た者ではない
兄弟を愛さない者も同様である
わたしたちは互いに愛し合うべきである
これが、あなたがたの
初めから聞いていたおとずれである」(9‐11節)


『互いに愛し合うこと』
これこそが、聖書に初めから記されている教えです
しかし、人はその心が惑わされると
カインが自分の兄弟アベルを殺したように
罪を犯す恐れがあるのです

カインは自分の行いが間違っていたのに
神から正しい者として祝福を受けたアベルに嫉妬して
罪を犯してしまった

人にはそれぞれの「思い」があっても
「義(正しさ)」の原点は神にあります
しかし、人に惑わされ
自分の心を第一として立てて行く時
わたしたちもまた
カインのようになっていくかもしれません

「主は、わたしたちのために命を捨ててくださった
それによって
わたしたちは愛ということを知った
それゆえに、わたしたちもまた
兄弟のためにいのちを捨てるべきである
世の富を持っていながら
兄弟が困っているのを見て
あわれみの心を閉じる者には
どうして神の愛が、彼のうちにあろうか
子たちよ、わたしたちは
言葉や口先だけで愛するのではなく
行いと真実とをもって
愛し合おうではないか
それによって、わたしたちが
真理から出たものであることがわかる」(16‐19節)


わたしたちにとって「命を捨てる」とは
自分が命のように大事に思っているもの(お金や名誉など)に
こだわらないことを表しています
人の執着心は欲であり
欲は罪を生む元となるものです

クリスチャンとしての正しい行いは
すべて愛から出るもの
つまり神ご自身から出るものです
「神の種(聖霊)」を自分のうちに持つ人は
神の救いによって
「死より命に移された人」なのですから
主イエスの名を信じ
お互いが愛し合っていくことを「神の掟」として
キリストご再臨の日まで
「神の子」としてふさわしい歩みをすることが
求められているのです

「その戒めというのは
神の子イエス・キリストの御名を信じ
わたしたちが命じられたように
互いに愛し合うべきことである
神の戒めを守る者は、神におり
神もまたその人にいます
そして神がわたしたちのうちにいますことは
神がわたしたちに賜った
御霊によって知るのである」(23‐24節)


「愛する」ということは
その対象が人であれ物であれ
「大切に思うこと」を示しています

神は究極の愛をもって
わたしたちを救ってくださった
そして
神を愛するわたしたちは
神を大切に思うがゆえに
聖書のみことばに従うのです

「また、それらのものによって
尊く、大いなる約束が
わたしたちに与えられている
それは、あなたがたが
世にある欲のために滅びることを免れ
神の性質にあずかる者となるためである」
(ペテロの第二の手紙1章4節)



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