今週のみことば


1月14日

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「六日の後、イエスは
ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて
高い山に登られた
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり
その顔は日のように輝き
その衣は光のように白くなった
すると、見よ
モーセとエリヤが彼らに現れて
イエスと語り合っていた」
(マタイによる福音書17章1-3節)

ここは「変貌山(へんぼうざん)」と呼ばれる記述です
この時イエスは弟子たちの前で
人間とは異なる姿を見せられたのですが
そこにモーセとエリヤが現れたことで興奮したペテロは
”三人のために三つの小屋を建てましょう”と言い出しました
弟子たちにとってモーセとエリヤは
とてつもなく偉大な人物との思いがありますから
イエスを彼らと同列に扱おうとしたのでしょう

ところが、輝く雲が3人をおおい
雲の中から神の声が聞こえてきました
『これはわたしの愛する子
わたしの心にかなう者である
これに聞け』(5節)

これを聞いて非常に恐れた弟子たちは
顔を地に伏せましたが
イエスに促されて目を上げると
そこにはイエスのほかには誰も見えませんでした(8節)

この「わたしの愛する子」とは
モーセでもエリヤでもありません
彼らは神に用いられた人々ではありますが
救い主キリストではないのです
こうして弟子たちは
自分たちが聞くべき方は
イエスだけであることを教えられたのです

そして彼らは
今回見たことについて
「人の子が死者の中から復活するまで」(9節)
誰にも話してはならないと命じられます
その時、彼らはイエスに
『なぜ律法学者は
まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』
と、たずねました
弟子たちはイエスがメシア(救い主)であることを信じており
今回もこうしてイエスの姿が変わるところを見せられ
さらに確信したでしょうが
律法学者たちはどんな奇跡の業を見ても
イエスをメシアとは認めようとしません
それはマラキ書4章5節に
「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたがたにつかわす」
と記されていることから
今まだエリヤが来ていないのだから
イエスはメシアではないと思っているわけです

しかし、この疑問に対して
イエスは「エリヤはすでに来た」と答えます
そして、さらに続く話を聞きながら
この「エリヤ」は「バプテスマのヨハネ」のことだと
弟子たちは悟るのでした

この後
悪霊にとりつかれた子どもが
イエスのところに連れてこられました
弟子たちのところに連れて行っても
癒されなかったというのです
イエスが悪霊を叱ると子どもから出て行き
その子はいやされました
そこで弟子たちはイエスにたずねます
「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」

「イエスは言われた
『信仰が薄いからだ
はっきり言っておく
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば
この山に向かって
ここからあそこへ移れと命じても
そのとおりになる
あなたがたにできないことは何もない」(20節)


17章は
「信仰」について深く教えられるところです
まずは信仰する対象は誰なのか?
当然、主イエス・キリストだけ、です
エリヤもモーセも神に用いられた人にすぎず
著名な牧師とか、偉い先生とか
そういう人の言葉に左右されるのではなく
クリスチャンはあくまでも
主イエスご自身の言葉を聞き
その言葉に立った行動をすること
それが信仰の表れとなります

人はふと寂しくなると
その心に雑多な思いがわいてくるものですが
そんな時こそ
まずイエスご自身に目を留めていくことが重要です
そして
神にあって「悟るべきこと」に気づくこと

律法学者たちが分からない「エリヤ」のことを
弟子たちは「バプテスマのヨハネ」のことだと悟ることができたように
誰でも心を開けば
イエスのみことばの真意を悟ることができ
それが信仰に結びついていくのです

教会にあっても
ひとりひとりに分かってほしい心がけや
悟ってほしい事柄があり
それを伝えることに難しさを感じることが多々あります
自分では悟りたいと願っても
いざはっきり言われると怒り出す人もあり
信仰が育たないうちは
何かちょっとしたことにでも
人はつまづいてしまうものなのです

ここに出てくる
”からし種一粒ほどの信仰”とは
神であるイエスにできないことはないと信じるかどうか
イエスのなさることに間違いはないと信用するか
その信頼関係の有無にかかっています

わたしたちはイエスの名による救いを受けてクリスチャンになり
信仰を与えられているなら
その信仰は成長しなくてはなりません
どんな時にも、自分の雑多な思いから離れて
まずはイエスのみことばに立つ
その小さな小さなからし種ほどの信仰は
やがて鳥が宿るほどの大きな木に成長し
人生の様々な問題に勝利して
希望のある平安な日々へと導いてくれるのです

イエスから「信仰が薄い」と言われた弟子たちは
その後、ガリラヤで
イエスの死と三日目に復活する預言を聞かされ
非常に悲しみました
彼らにはまだその意味を理解する(悟る)信仰が育っておらず
人間的な思いをもって聞くので
神のご計画をただ残念なことだと思ってしまうのでした

24節からは
イエスと弟子たちが「神殿税」を求められます
その時、イエスはペテロに
「地上の王は税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか
自分の子どもたちからか
それともほかの人々からか」とたずねました
これに対してペテロは
「ほかの人々からです」と答えました
するとイエスは言われます
「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ
しかし、彼らをつまづかせないようにしよう」
そして彼らに湖に行って釣りをするよう指示し
最初に釣れる魚の口にある銀貨をとって
神殿税とするよう命じたのです

神殿の王は神です
神の子であるイエスには納税の義務はないが
彼らをつまづかせないために納税する
このように
わたしたちクリスチャンは
人々をつまづかせないために
自分の置かれた国の制度に従っていかなくてはなりません
信仰が成長すると非常識になるのではなく
世の中を上手にトラブルなく通り過ぎるよう
知恵を持った行動が必要になるのです

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた
『天の国はからし種に似ている
人がこれを取って畑にまけば
どんな種よりも小さいのに
成長するとどの野菜よりも大きくなり
空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる』」
(マタイによる福音書13章31‐32節)




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