今週のみことば
1月21日
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「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て
『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』
と言った
そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ
彼らの中に立たせて、言われた
『はっきり言っておく
心を入れ替えて子どものようにならなければ
決して天の国に入ることはできない
自分を低くして、この子どものようになる人が
天の国で一番偉いのだ
わたしの名のために
このような一人の子どもを受け入れる者は
わたしを受け入れるのである』」
(マタイによる福音書18章1-5節)
この教会の中でだれが一番偉いのか?
そういうことに関心がある人は昔も今も同じようにあります
それは、人間の持つ「弱さ」の現れであり
この弱さからくる様々な負の感情によって
人はしばしば過ちを犯すのです
天の国で一番偉い者とされた「子ども」は
何も悪い感情を持たない
自分を偉いとも思わない
ただ神を信じて見上げる存在ですから
わたしたちは天の国とつながっている教会にあって
この子どものような純粋な信仰を持つよう
求められています
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる者は
大きな石臼を首にかけられて
深い海に沈められる方がましである
世は人をつまづかせるから不幸だ
つまづきは避けられない
だが、つまづきをもたらす者は不幸である」(6‐7節)
しかし、教会には
このような神を見上げる純粋な人々を
「つまづかせる人」が出てくることがあります
これはテモテへの手紙4章にも記されているように
”惑わす霊と、悪霊どもの教えに心を奪われ
信仰から脱落する者”が出てくるためで
この「信仰のつまづき」をもたらす者の出現は
残念ながら避けることはできません
ただ、この「つまづきをもたらす者は」
自らも惑わされているのですから
「不幸」な存在です
また、つまづかされた人が信仰から離れようとするなら
それを決して放置しないのが神の御心
百匹の羊のうち一匹が迷い出た時
ほかの九十九匹を山に残しおいて
一匹を探しに行くのです
「これらの小さな者が一人でも滅びることは
あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)
一方、罪を犯した人に対しても
悔い改めの機会を作り
その人を再び神に立ち帰らせる必要があります
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら
行って二人だけのところで忠告しなさい
言うことを聞きいれたら
兄弟を得たことになる」(15節)
それでも聞きいれない場合には
今度はニ、三人の立会いの下で忠告します
「それでも聞き入れないければ教会に申し出なさい
教会の言うことも聞き入れないなら
その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)
「はっきり言っておく
あなたがたが地上でつなぐことは
天上でもつながれ
あなたがたが地上で解くことは
天上でも解かれる」(18節)
ここは文語訳聖書(引照付)の補足部分に
「地にて禁ずる所は天にても禁じ
地にて許す所は天にても許すなり」
と訳されているように
「つなぐ→禁じる」「解く→許す」との意味となり
教会における判断に
天国と同じ権威があることが分かります
そして
教会においてイエスの名による集まりを持つ時
そこにはイエスご自身もいてくださるのです
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには
わたしもその中にいるのである」(20節)
さて、ここまでは
罪を犯した人が
つまづきの元となる自分の過ちを認め
悔い改めなくてはならないことが記されていました
そして
21節からはペテロが
罪を犯した兄弟を何回許すべきか?七回までか?とたずね
悔い改めから許しへと
話は移っていきます
「主イエスは言われた
『あなたに言っておく
七回どころか七の七十倍ゆるしなさい』」(22節)
この時イエスは
「仲間を許さない家来のたとえ」を語っています
王様が家来に貸したお金の返済を求めた時
返すことができなかった家来は
もう少し待ってもらえるよう懇願し
あわれに思った王様は彼の借金を帳消しにしました
ところが、この家来は
自分がお金を貸していた仲間をつかまえ
彼が返済を待ってくれと懇願しても許さず
牢に入れてしまったのです
自分は許されたのに、人の事は許さない
それを知った王様は怒って
家来をつかまえて牢に入れたのでした(23‐34節)
「あなたがたの一人一人が
心から兄弟をゆるさないなら
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(35節)
教会には色んな人が集められてきます
その中にあって牧師は
弱い人を守り
迷っている(間違っている)人を正し
教会という「群れ」にふさわしい信仰者になるよう
一人一人を導く役目を担っています
しかし、牧師も感情を持ち、弱さをもつ人間にすぎず
教会の中で一番偉いわけではありません
教会の中で一番偉いのは
神である主イエスただ一人です
悔い改めの先にある許しは
神の愛から来るものであり
わたしたちが常に習うべき心がけでもあります
人生には
信仰の土台の上にふんばる時
勇気をもって踏み出す時
神の導きに逆らわず流される時・・・と
色々な時があります
どのような時であっても
そこにはいつも神の愛があることを心に留めて
たとえ間違いがあっても
許しのうちに生かされていることを知り
わたしたち自身も愛のある生き方を
心がけていきたいものです
「神は、すべての人々が救われて
真理を知るようになることを望んでおられます」
(テモテへの第一の手紙2章4節)
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