今週のみことば
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2月4日
「天の国は次のようにたとえられる
ある家の主人が
ぶどう園で働く労働者を雇うために
夜明けに出かけて行った
主人は一日につき一デナリオンの約束で
労働者をぶどう園に送った
また、九時ごろに行ってみると
何もしないで広場に立っている人々がいたので
『あなたたちもぶどう園に行きなさい
ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った
それで、その人たちは出かけて行った
主人は、十二時と三時ごろに
また出て行き同じようにした
五時ごろにも行ってみると
ほかの人々が立っていたので
『なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか』
と尋ねると
彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った
主人は彼らに
『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」
(マタイによる福音書20章3-7節)
夕方になり、労働者たちに
「最後に来た者」から賃金が支払われました
5時に来て一時間だけ働いた人が
1デナリオンもらっているのを見て
夜明けから働いていた人は
1デナリオンよりたくさんもらえると期待しましたが
もらったのは約束通りの1デナリオンです
一日中働いた人と、一時間働いた人の賃金が同じなのは
不公平ではないのか?と彼らは不平を言いました
「主人はその一人に答えた
『友よ、あなたに不当なことはしていない
あなたはわたしと
一デナリオンの約束をしたではないか
自分の分を受け取って帰りなさい
わたしは最後の者にも
あなたと同じように支払ってやりたいのだ
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか
それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』
このように、後にいる者が先になり
先にいる者が後になる」(13‐16節)
広場で早朝から雇われる人と
だれにも雇われずに夕方まで待つ人の差は
その人の持つ能力の差を表しています
世の中においてはその評価が
そのまま賃金に反映されるのですが
天国における神の感覚は
”どんな人も同じようにあつかいたい”
というものなので
その心が理解できない人にとっては
実に不可解なことなのでした
ここで重要なのは
「雇い主」と「雇われる人」の考え方の違いです
それは
”神と人との考え方の違い”を表しており
信仰者は自分の従来の考え方から離れて
神の側の考え方に変わっていくこと
つまり、”神の側に立つ”という生き方を
学ぶ必要があるのです
ぶどう園で雇われた人々は
どんな人にもみな同じ賃金が支払われました
それが「主人の心」
つまり、「神の御旨」だから
そして
ここに「神の愛」があらわれているわけです
そもそも人間は生まれながらにしてみな同じではなく
生まれる国も人種も性別も容姿も才能も
自分で選ぶことはできません
そして
世の中にあっては
社会的に優位な立場にある人と
そうでない人の差は歴然としており
すべての人が平等に扱われるようにと願いつつも
その実現は実に難しいことと思われます
しかし、世の中はそうであっても
「天国」は違います
また、地上にあって天国を体験する教会も
そこに招かれる人に対して
優劣や上下関係ができないように
一人一人を「異なる役割を持つ器」として
愛をもって導いていかなくてはなりません
ローマ人への手紙9章21節には
「焼き物師は同じ粘土から
一つを尊いことに用いる器に
一つを尊くないことに用いる器に造る権限がある」
と記されています
「焼き物師」は創造主を表しており
神は人をどのようにでも造る権限を持っていること
つまり、人はみな
神の権威のうちに生かされていることを知るなら
不満やねたみなどからくるトラブルは
起こらないはずなのです
ただ、残念ながら
人の思いは神と異なるため
教会の中でも優位な立場になりたいと思ったり
それが神の祝福だと勘違いしている人もあります
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が
その二人の息子と一緒にイエスのところに来て
ひれ伏し、何かを願おうとした
イエスが、『何が望みか』と言われると
彼女は言った
『王座にお着きになる時、この二人の息子が
一人はあなたの右に
もう一人は
あなたの左に座れるとおっしゃってください』」
(20‐21節)
十二使徒であるヤコブとヨハネの母親は
こうして自分の息子たちが
他の使徒たちよりも
高い地位につくことを願いました
その前の17‐19節では
イエスは十二人の弟子たちだけを集めて
今後、ご自身が十字架にかかって死に
三日目に復活することを告げています
これは自らを「救い主」として
その過酷な役割についてのべられたわけですが
彼らにはまだその意味が理解できておらず
自分が偉くなることの方に興味があったようです
母親の願いに対してイエスは言われました
『あなたがたは、自分が何を願っているか
分かっていない』(22節)
今後、イエスの十字架の死と復活の後
弟子たちには過酷な宣教の日々が待っています
それもわからず
彼らが気にしているのは自分の地位のこと
しかも他の弟子たちもこの事で腹を立て
みんなの関係がギスギスしてしまいます
「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた
『あなたがたも知っているように
異邦人の間では支配者たちが民を支配し
偉い人たちが権力をふるっている
しかし、あなたがたの間では
そうであってはならない
あなたがたの中で偉くなりたい者は
皆に仕える者になり
いちばん上になりたい者は
皆の僕になりなさい
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために
また、多くの人の身代金として
自分の命をささげるために来たのと同じように』」
(25‐28節)
教会にあって、牧師はもちろん
教会に集う一人一人も
他者を支配する権力者になってはいけません
神ご自身が、人を救うために
ご自分の命をささげるために来られたように
わたしたちもお互いが仕え合い
尊重し合って行くことが重要なのです
29節からは二人の盲人が登場します
彼らは大勢の群衆に叱られながらも
大声でイエスに叫びます
『主よ、ダビデの子よ
わたしたちを憐れんでください』
するとイエスは立ち止まって
『何をしてほしいのか』と問いかけます
二人は言いました
『目を開けていただきたいのです』
イエスが深く憐れんで、その目に触れられると
盲人たちはすぐ見えるようになり
イエスに従った」(34節)
この二人の盲人は
イエスが救い主であることを信じており
人からどんなに止められても
ただひたすら救いを求めました
そして、見えるようになったからもうおしまいではなく
その後もイエスに従ったとあります
神によって生かされ、恵まれる人は
このようにまっすぐに行動し
一方で、心の内に不信感を持っている群衆は
盲人を見下し、黙らせようとするのです
19章の終わりに記された
「先にいる多くの者が後になり
後にいる多くの者が先になる」とのみことばは
「ぶどう園のたとえ」の最後(16節)でも
繰り返されています
天国には何の差別もないように
教会でもそこに集う人々に
古いも新しいも関係なく
優劣もありませんが
そこにある神の絶対の権威と御心を悟らなければ
わたしたちも群衆と同じになり
信仰しているつもりで
実はその道から離れ
心の安定を欠き、平安を失って
心がすさんでいくことにもなりかねません
一人一人立場は違えど
神により頼む盲人の叫びのように祈り求め
その心が神に届いて
憐れみを受けることができますように
また、憐れみを受けたなら
その感謝をいつまでも忘れないように
心に留めて従っていきましょう
<目次