今週のみことば

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2月18日

「イエスが神殿の境内に入って教えておられると
祭司長や民の長老たちが近寄ってきて言った
『何の権威でこのようなことをしているのか
だれがその権威を与えたのか』」
(マタイによる福音書21章23節)

22節までの出来事(イエスによる奇跡の業)について
祭司長たちはここで直接イエスに問いかけます
これに対してイエスは答えることなく
『ヨハネの洗礼はどこからのものだったか
天からのものか
それとも、人からのものか』と
逆に質問するのです

祭司長たちにとってこの質問は
実に都合が悪いものでした
もし「天から」と言えば
なぜヨハネを信じなかったのかと言われるだろう
「人から」と言えば群衆が怖い
そこで彼らは『分からない』と答えます

これに対してイエスは
ご自分も質問には答えず
「たとえ話」を語ります

ある人に息子が二人いて
それぞれにぶどう園に言って働くよう命じますが
兄は最初”いやです”と言ったものの
あとで考え直して出かけ
弟は”行きます”と返事はよかったが
実際には行かなかった

「『この二人のうち
どちらが父親の望みどおりにしたか』
彼らが『兄の方です』と言うと
イエスは言われた
『はっきり言っておく
徴税人や娼婦たちの方が
あなたたちより先に神の国に入るだろう
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに
あなたたちは彼を信ぜず
徴税人や娼婦たちは信じたからだ
あなたたちはそれを見ても
後で考え直して彼を信じようとしなかった』」
(31‐32節)


祭司長や学者たちは
神を信じていると言いつつ
実は自分の考えしか信じていません
そのため
救い主の先備えとして遣わされたヨハネを信じず
こうしてキリストのことも信じることができないのです

イエスによる「たとえ話」はさらに続きます
ぶどう園の主人が
農夫たちに園を貸して旅に出た
収穫の時にしもべたちが遣わされたが
農夫たちは収穫物を渡すどころか
彼らをひどい目に合わせ
それを2回も繰り返した挙句
ついには主人の息子まで殺してしまった
さて帰ってきた主人は
農夫たちをどうするだろうか?
その問いかけに祭司長たちは答えます
『その悪人どもをひどい目にあわせて殺し
ぶどう園は季節ごとに収穫を納める
ほかの農夫に貸すに違いない』(41節)


ここでイエスは
詩篇118篇22‐23節のみことばを引用します
「家を建てる者の退けた石が
隅の親石となった
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと」


せっかく救い主が現れたというのに
信じない人々はキリストを排除しようとします
その奇跡の業は
天から来たものであることを彼らは認めず
そんな自分たちの過ちを悔い改めることもしない彼らに
イエスは言われます
「だから言っておくが
神の国はあなたたちから取り上げられ
それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)


祭司長たちは
このたとえ話が自分たちのことだと気づいたので
イエスを捕らえようとしますが
イエスを信じている群衆の反発を恐れて
何もできませんでした

このように
イエス一行の行く先々には
常に大勢の「群衆」がついて行きましたが
その中には信じる人もいれば
ただ興味本位の人もいました

「信じる人」となった徴税人や娼婦たちは
イエスを信じ
それまでの生き方や考え方を悔い改めましたが
誰よりも神を信じていると自負している祭司長たちは
自分の考えの正しさに固執し
神に喜ばれる者となることができません
その結果
せっかく神が与えてくださろうとしている恵みを
自ら拒否してしまうのです

わたしたちの人生は
日々楽しいことばかりではなく
内側が満たされていないと
たとえお金がたくさんあっても幸せではありません
この”内側が満たされる”ために必要なのが
神の存在を真実として受け入れる「信仰」です

この「信仰」は
人生が自分の思い通りになるというのではなく
神に任せていくものですから
神から与えられた恵みを失わないように
自分目線ではなく
神からの目線で物事をとらえ
物の見方や考え方が
変えられていくことが大切なのです


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