今週のみことば


3月4日

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「それから、イエスは
群衆と弟子たちにお話になった
『律法学者たちやファリサイ派の人々は
モーセの座についている
だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい
しかし、彼らの行いは、見習ってはならない
言うだけで実行しないからである
彼らは背負いきれない重荷をまとめ
人の肩にのせるが
自分ではそれを動かすために
指一本貸そうともしない
そのすることは、すべて人に見せるためである
聖句の入った小箱を大きくしたり
衣服の房を長くしたりする
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み
また、広場であいさつされたり
”先生”と呼ばれたりすることを好む』」
(マタイによる福音書23章1-7節)

23章では
律法学者たちやファリサイ(パリサイ)派の人々について
その間違いが次々に指摘されます

人は誰しも「人から良く思われたい」と思うものですが
彼らの思いは「おごり・高ぶり」のレベルであり
自分を立派に見せようと
外観をとりつくろうことに熱心になっています

しかし、イエスは人の内側を見る方ですから
その高慢な心はすべて見られているため
以下のように告げられるのです

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は
仕える者になりなさい
だれでも高ぶる者は低くされ
へりくだる者は高められる」(11‐12節)


ただ、彼らは「モーセの座についている」
つまり、社会にあって「権力の座にいる」ので
彼らの言うことは聞いて守らなくてはならない
ただし
モーセは神から十戒を授かる特権を与えられた人
つまり、神から特別に選ばれた人ですが
学者たちは単に世の中で力を持っているにすぎません
これは、現在わたしたちが
社会で権力を持った人がどうであっても
世の中の決まりごとを守って生きているのと同じです

また、この律法学者やパリサイ派の人々は
「口だけの人」で実行しないため
そこには「神の恵み」が伴いません
さらには
彼らのことを「偽善者」とし
その「不幸」な実態について語られています

「律法学者たちとファリサイ派の人々
あなたたち偽善者は不幸だ
人々の前で天の国を閉ざすからだ
自分が入らないばかりか
入ろうとする人をも入らせない」(13‐14節)


このように
高ぶる人には「神の恵み」が伴いませんが
自分を低くしていく人は
神の恵みを受けることができるのです

また
信仰の指導者の立場でありながら
大切な真理が分からない彼らのことを
「ものの見えない案内人」として
さらに非難は続きます

彼らは律法を重んじながら
「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実は
ないがしろにしている」(23節)

「律法学者とファリサイ派の人々
あなたたち偽善者は不幸だ
白く塗った墓に似ているからだ
外側は美しく見えるが
内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている
このように、あなたたちも
外側は人に正しいように見えながら
内側は偽善と不法で満ちている」(27‐28節)


結局、彼らの信仰感というのは
神に対する見方や考え方が自分本位で
一つの方向からしか見ようとしていません

そこへ神ご自身であるキリストが現れて
別の見方を提示されても
その考え方が受け入れられないのは
自分が傲慢になっているからです

もし神の前に素直に心を開いて語れば
解決することも多いでしょう
そのためには
自分が何を考え、何をやっているのか
まず省みることが大切です
そして、その心が神から見られているのです

世の中にあって生きるうちに
様々な問題に悩まされ
生きることさえ嫌になることもあるかもしれませんが
神の恵みの中にあれば
一番良い方へと導かれることは間違いありませんから
パリサイ人らを反面教師として
わたしたちは「恵まれる人」としての
素直な信仰感を持って行きたいものです

「涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる
種の袋を背負い
泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌を歌いながら帰ってくる」
(詩篇126篇5‐6節)



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