今週のみことば


4月22日

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「神の子イエス・キリストの福音の初め
預言者イザヤの書にこう書いてある
『見よ、わたしはあなたより先に使者をつかわし
あなたの道を準備させよう
荒れ野で叫ぶ者の声がする
”主の道を整え
その道筋をまっすぐにせよ”』
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて
罪の許しを得させるために
悔い改めの洗礼を宣べ伝えた
ユダヤの全地方とエルサレムの住民はみな
ヨハネの元に来て、罪を告白し
ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた
ヨハネはらくだの毛衣を着
腰に革の帯をしめ
いなごと野蜜を食べていた
彼はこう宣べ伝えた
『わたしよりも優れた方が、後から来られる
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが
その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる』」
(マルコによる福音書1章1-8節)

マルコによる福音書は
まず洗礼者ヨハネの登場から始まります

「救い主」が来る前に
その道筋を整える役割を担うヨハネについては
イザヤ書40章3節に預言されていました
彼は「悔い改めの洗礼」を人々に施しますが
これは後に来るイエスの「生命の救いの洗礼」に導くためのもので
ヨハネ自身に救いの力があるわけではありません

ヨハネと救い主イエスの立場の違いについては
”わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない”
ヨハネが語っているとおりです
しかし、イエスご自身は
その後、ヨハネから洗礼を受けられました
それが神の御旨だからです
そして、洗礼の後、天が裂けて聖霊が鳩のように降り
『あなたはわたしの愛する子
わたしの心に適う者』という神の声が聞こえます

こうして
神ご自身が人間の肉体をもって生まれた「神の子イエス」は
地上にあって人間と同じ生活をしながら
荒れ野で40日間試みられ
サタンの誘惑を受けた後
ガリラヤで福音伝道を始められました

「ヨハネが捕らえられた後
イエスはガリラヤへ行き
神の福音を宣べ伝えて
『時は満ち、神の国は近づいた
悔い改めて福音を信じなさい』
と言われた」(14‐15節)


その後、漁師をしていたシモンとアンデレを弟子とし
ゼベダイの子ヤコブとヨハネも加えられて
彼らはイエスの後をついて行きました
そして、行く先々で
たくさんの「癒しの奇跡」を見ることとなります

ただ、この時にはまだ「聖霊」は降っておらず
”その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる”
とヨハネが語った「聖霊降臨」は
イエスの十字架〜復活〜昇天の後のことですから
この伝道活動の中では
イエスが直接その力をもって人々を癒していくのでした

さて、ここで語られた「聖霊によるバプテスマ」については
イエスご自身がヨハネによる福音書3章で言及しておられます

「イエスはお答えになった
『はっきり言っておく
だれでも水と霊とによって生まれなければ
神の国に入ることはできない
肉から生まれたものは肉である
霊から生まれたものは霊である
”あなたがたは新たに生まれなければならない”と
あなたに言ったことに、驚いてはならない』」
(ヨハネによる福音書3章5‐7節)


人はだれでも「肉から生まれた者」です
そのため、「水と霊」すなわち
「洗礼と聖霊のバプテスマ」によって新たに生まれなければ
サタンの支配するこの世に捕らわれたまま
「自由な身」となることができません

「この自由を得させるために
キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです
だから、しっかりしなさい
奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」
(ガラテヤ人への手紙5章1節)


キリストによる「洗礼と聖霊のバプテスマによる救い」は
「律法を守ることによる救い」と異なり
キリストの体に結ばれて
聖霊に従う新しい生き方でもって
神に仕えるようになります

これについては
「律法による救い」を重視する人々から迫害があり
人の顔色をうかがう人は
また不自由な生き方にもどっていく場合もあるのですが
「聖霊」というものの力について
わたしたちは改めてよく知って
キリストの福音に根ざした
揺らがない信仰感を身につけて行く必要があるのです

「わたしは乾いている地に水を注ぎ
乾いた土地に流れを与える
あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
あなたの末にわたしの祝福を与える
彼らは草の生い茂る中に芽生え
水のほとりの柳のように育つ」
(イザヤ書44章3‐4節)


預言者イザヤによって預言された「聖霊降臨」は
やがて使徒行伝2章に記されているように実現し
今も「聖霊のバプテスマ」による救いは続いています

では、「聖霊を受けた」ことは
どのように確認できるのでしょうか

使徒行伝10章において
ペテロがキリストの福音について話していると
異邦人にも聖霊が注がれました

「ペテロがこれらのことをなおも話し続けていると
御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った
割礼を受けている信者で
ペテロと一緒に来た人はみな
聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て
大いに驚いた
異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを
聞いたからである
そこでペテロは
『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが
水で洗礼を受けるのを
いったいだれが妨げることができますか』と言った
そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと
その人たちに命じた」
(使徒行伝10章44‐48節)


ここに記されているように
聖霊を受けたしるしは
「異言」によって神を賛美することです
それは聖霊降臨の時から現在に至るまで
変わることはありません

こうして今も変わらず
「洗礼と聖霊のバプテスマによる救い」は
教会によって伝えられており
救いにあずかる機会は万民に開かれています

ただし、救いを受けたから
もう自分の思い通りの
理想の人生になるというわけではないので
”人生を神にゆだねる”という信仰感を持たない人は
焦りや欲から
再びサタンの惑わしにのる(支配下に下る)可能性があります
ですから、そうならないために
みことばを通して
自らの信仰を省みながら
自分の理想通りではなくても
”成ったことが神の御旨”なのだと考えて
人生を神にゆだねる信仰を
育てていく必要があるのです

とはいえ
自分の人生なのだから自分の好きなようにする
そう考えるのは自然なことでしょう
しかし
実際に好きなようにしたつもりが
思うような結果にならないことも多いものです
自分の人生ではありますが
自分で思うようにできるわけでも
思うようになるわけでもない
この現実を学ぶことは大切です



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