今週のみことば


4月29日

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「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると
家におられることが知れ渡り
大勢の人が集まったので
戸口のあたりまですき間もないほどになった
イエスが御言葉を語っておられると
四人の男が中風の人を運んできた
しかし、群衆に阻まれて
イエスの元に連れて行くことができなかったので
イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ
病人の寝ている床をつり降ろした
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に
『子よ、あなたの罪は許される』と言われた
ところが、そこに律法学者が数人座っていて
『この人は、なぜこういうことを口にするのか
神を冒とくしている
神おひとりのほかに、いったいだれが
罪を許すことができるだろうか』
イエスは彼らが心の中で考えていることを
ご自分の霊の力ですぐに知って言われた
『なぜ、そんな考えを心に抱くのか
中風の人に”あなたの罪は許される”と言うのと
”起きて床をかついで歩け”と言うのと
どちらが易しいか
人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう』
そして、中風の人に言われた
『わたしはあなたに言う
起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』
その人は起き上がり、すぐに床を担いで
皆の見ている前を出て行った
人々はみな驚き
『このようなことは、今まで見たことがない』と言って
神を賛美した」
(マルコによる福音書2章1-12節)

イエスの行かれる先々には
常に多くの群衆の存在がありました
「群衆」の中には
心から救いを求めている人もあれば
ただ見るだけの興味本位の野次馬や
イエスを陥れようと粗探しをする律法学者もいます
そして、彼らの心は
すべて神の霊の力によって
明らかにされるのでした

まず、中風の人を運んできた4人の男たちは
何とかしてこの病人をイエスの元に連れて行きたい
そうすれば必ず癒されると信じて
病人を屋根からつり降ろす方法を考えました
彼らのその信仰心を見て
イエスは『子よ、あなたの罪は許される』と言われますが
その言葉に引っかかったのが律法学者です

「罪の許し」は神以外にはできませんから
イエスを救い主と信じていない律法学者には
この言葉は神への冒とくと思えました
しかし
実際に神ご自身が救い主として来られたイエスには
彼らの心の内は丸見えです
そこで
ご自分の言葉の証拠を示すため、病人に
『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言い
そこに奇跡の業がなされます

最初は
『子よ、あなたの罪は許される』という言葉に
かみついてきた律法学者も
実際に病人が癒される様子を見れば
もう文句の言いようはありません
また、周りの野次馬もみな
神を賛美するに至りました

この奇跡の業がなされるにあたり
まず重要なポイントは
中風の人を屋根からつり降ろすという行為です
この行動は
イエスの元に連れて行けば癒されるとの信仰から出た事であり
そのためには
周りの「群衆」のさまたげをのがれる必要がありました

この「群衆」は
言いかえれば
「信仰の妨げとなる存在」です
それは、実際の人だけでなく
自分の心の中にも起こってくる
「不信仰な思い」もあるでしょう

信仰者にとって大敵は
イエスとわたしたちを隔てる存在です
その多くは自分の心にわいてくるものであり
そういう思いが入り込んでくると
神が見えなくなるので
注意しなくてはなりません

ヨハネによる福音書5章には
「ベテスダの池」の奇跡が記されています
そこに38年も病気で寝たきりの人がいて
”天使が水を動かす時に初めに飛び込んだ者はいやされる”
との奇跡にあずかりたくても
自分を水に入れてくれる人がいないと嘆いていました
そこでもイエスは
『起き上がりなさい
床を担いで歩きなさい』と
自分では歩けるはずのない人に命じます
その人はすぐに癒され
床を担いで歩き出しました

また、列王記下5章に記された
軍司令官ナアマンの不治の病気は
預言者の言葉に従うことによって
癒されていきました
最初はその言葉が気に入らなかったナアマンでしたが
部下の助言で心が変わり
素直に受け止めたことで
そこに奇跡が行われたのです

人の心は複雑で
傷つきやすいため
なかなか素直に神の言葉を受け入れるに至りません
そこには
自分の理想や都合、見栄といった「自分の思い」があり
そこから立ち上がって
イエスの言葉に立った歩みをするには
信仰が必要なのです

人は一人では生きていけませんが
それでもできることはあります
何もできないように思えても
できないという思いに打ち勝つために
”イエスにあって強く歩む”という意志をもって
自分のできることをする

その先にどのようなことが起きてくるのか
どのような救いの業がなされるのかは
信仰者だけが知ることのできる世界なのです



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