今週のみことば
5月6日
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「イエスはまた会堂にお入りになった
そこに片手のなえた人がいた
人々はイエスを訴えようと思って
安息日にこの人の病気をいやされるかどうか
注目していた
イエスは手のなえた人に
『真ん中に立ちなさい』と言われた
そして人々にこう言われた
『安息日に律法で許されているのは
善を行うことか、悪を行うことか
命を救うことか、殺すことか』
彼らは黙っていた
そこでイエスは怒って人々を見回し
彼らのかたくなな心を悲しみながら
その人に『手を伸ばしなさい』と言われた
伸ばすと、手は元どおりになった
ファリサイ派の人々は出て行き
早速、ヘロデ派の人々と一緒に
どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」
(マルコによる福音書3章1-6節)
ファリサイ派(パリサイ派)の人々は
ただ律法を守ることだけに固執しており
安息日についての律法の考え方にも
そこに神の心を交えることができません
そのため
安息日の本来の意味よりも
「何もしてはならない日」という
表面的な意味のみを重視した
自己満足の安息日を守っています
そして
ついには安息日に良いことをするのも罪として
イエスを裁こうとするのでした
安息日についてイエスは
2章の終わりに以下のように述べられています
『安息日は、人のために定められた
人が安息日のためにあるのではない
だから、人の子は安息日の主でもある』
安息日は
人を裁くために定められたものではありません
そして、神であるイエスは
安息日に支配されることなく
自由にご自分の御旨の業を成されます
ところが、パリサイ人たちは
そもそも神がどういう方であるかを分かっていないため
そこにサタンが働き
心がかたくなになって
イエスという方のことが理解できないのです
このように
サタンに心が支配されると真実が分からなくなり
正しく物事を見ることもできません
11節では、汚れた霊であっても
「イエスを見るとひれ伏して
『あなたは神の子だ』と叫んだ」とあり
イエスの本当の姿を知っているのに
人間は自分の思いによって神の働きを否定し
神の業を見てなおイエスを否定し、殺そうとするのです
こうして
神の証を聞いて喜ぶ人もあれば
ひねくれた聞き方をして
信仰に結びつかない人もあります
また、「おきての信仰」をしている人は
神の心から離れた自己流の信仰となります
せっかく神に招かれてクリスチャンになっても
心がかたくなで
神の心を理解できず
神に対して手を伸ばす(心を開く)事がなければ
なえた手が伸びる奇跡を見ることもないでしょう
どんな優秀な人であっても
自分の仕事に真摯に向き合っていかないと
いざという時に勘が働かないように
信仰者も神に従おうとしながら
ここという時にサタンに惑わされて
選択を間違うことがあります
物事に対する考え方は人それぞれ違いますが
その思いがどこからきているのか
今一度信仰に立ち帰って考え
自分の思いが強いパリサイ人の自己満足の信仰感ではなく
本当の信仰をもって歩むことができますように
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