今週のみことば


10月14日

「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている
だから、彼らがあなたがたにいうことは
みな守って実行しなさい
しかし、彼らのすることには、ならうな
彼らは言うだけで、実行しないから
また、思い荷をくくって人々の肩にのせるが
それを動かすために
自分では指一本貸そうとはしない
そのすることは、すべて人に見せるためである」
(マタイによる福音書23章2-5節)



聖書に記された律法は
イスラエルにとって生活の規範であるため
それを教える律法学者の言葉には従わなくてはならない
しかし
彼らの現実の行動はすべて人に見せるためであり
常に自分が偉い者とされなくては満足しない
だから
そんな彼らの行動に習ってはならないのだと
イエスは教えています

「だれでも自分を高くする者は低くされ
自分を低くする者は高くされるであろう」(12節)


信仰の世界は”神と自分”であり
そこに他人と比べる必要性はありません
ところが
人間は心の奥に
自分を高くおきたい
偉く思われたい、との思いがあるため
信仰熱心になることが
人に見せるための熱心にすりかわっていく危険性は
誰にでも潜んでいます

また
知識の多い人の言葉には
上辺だけ見ると心ひかれるものもありますが
それがすべて正しいかといえば決してそうとは言えず
高名な学者の言葉を頼りに行動しても
しょせん人の言葉は神の言葉ではありません

「あなたがたは鼻から息の出入りする人にたよることをやめよ
このような者はなんの価値があろうか」
(イザヤ書2章22節)


わたしたちクリスチャンには
聖書という神の言葉そのものが与えられています
その内容は誰もすべてを理解するには至らず
人間的な常識をあてはめるなら
奇妙に感じるところもありますが
たとえ意味がわからなくても
それは絶対に強いて解いてはならないとも記されています

「聖書の予言はすべて自分勝手に解釈すべきでないことを
まず第一に知るべきである
なぜなら、予言は決して人間の意志から出たものではなく
人々が聖霊に感じ
神によって語ったものだからである」
(ペテロの第二の手紙1章20-21節)


「その手紙の中には、ところどころわかりにくい箇所もあって
無学で心の定まらない者だちは
ほかの聖書についてもしているように無理な解釈をほどこして
自分の滅亡を招いている」
(ペテロの第二の手紙3章16節)


このように
聖書のみことばは神の言葉であるがゆえに
人々はその内容を深く知ることを求め
やがて禁じられているはずの聖書の研究へと走っていくわけですが
なぜ
聖書を第一とし
それを読んでそのまま受け入れながら進むことを
素直に受け入れるのが難しいのでしょうか

聖書を学問のように研究し勉強すれば
それはそれで人の心を満足させるのかもしれません
しかし
そうすることが神を喜ばせることでしょうか

そもそも人が聖書を読むのは
そこに記された言葉に従って歩み
神に喜ばれる人に成長するのが目的なのではないでしょうか

昔も今も
多くの人々が聖書を議論の対象として用いています
本来聖書を否定してはならないクリスチャンが
現実にはそういう類の論争を繰り広げ
聖書をそのまま受け入れようとせず
人の考えや研究にその信仰をゆだね
神ではなく人の論証を頼りとしている現実には
大きな疑問を感じます

神から見た人間の現実の姿というのは
程度の差はあれこういう状態です

「わたしたちも以前には
無分別で、不従順な、迷っていた者であって
さまざまの情欲と快楽との奴隷になり
悪意とねたみとで日を過ごし
人に憎まれ、互いに憎みあっていた」
(テトスの手紙3章3-4節)

だからこそ神の救いが必要なのでした
しかも人の行いではなく
神の恵みとあわれみによってそれはなされるというのです

「ところが、わたしたちの救い主なる神の慈愛と博愛が現れたとき
わたしたちの行った義のわざによってではなく
ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け
聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのです
この聖霊は
わたしたちの救い主イエス・キリストを通して
わたしたちの上に豊かに注がれた
これは、わたしたちがキリストの恵みによって義とされ
永遠のいのちを望むことによって
御国をつぐ者となるためである」
(同章3-7節)


更に続く8節には
「この言葉は確実である」とあります
そして
神を信じる者たちが努めて良いわざに励むよう心がけることは
人々にとって大いに益となるわけです

「しかし、愚かな議論と
系図と、争いと、律法についての論争とを避けなさい
それらは無益、かつ空虚なことである」
(同章9節)


神にとって益だとされること
つまり、神に喜ばれることは
人々が救われて神の前に正しく生きていくことです
それは神にとっても人にとっても喜ばしいこと
しかし
たとえ聖書についての議論であっても
それは空虚で神に喜ばれないことなのです

わたしたちにとっては
与えられた聖書から素直に神の教えを受け止め
それを自らの生活に生かしていくことに意味があるのであって
勉強によって確信を得ようとするなら
どこまで突きつめても真理を理解するには至らないでしょう
なぜなら
真理=神のことを理解するに人の知恵は及ばず
人の知恵で解明できるような神は
本当の神ではないからです

神を信じるには
まず謙虚な心が必要です
そうして自らがへりくだって信じることは素晴らしい事
それで心が豊かになり
神と人とに愛される者となるならば
それこそ神の証ではないでしょうか

細かい理屈にこだわって本質を見失う律法学者の姿は
昔も今も存在する信仰の落とし穴です
聖書は勉強や研究をする材料ではなく
教えられるもの

人の知恵に望みを置くのではなく
今みことばを信じ
それに従って生きる自分の上になされる神の業を見て
その理屈では解明できない神の働きを感じることこそ
真に神を理解することにつながるのです

クリスチャンの正しい歩み方の判断は
それが神に喜ばれるかどうかであり
歩み方の基準は聖書に記されているとおり
イエスの歩まれたあとに習うことです

神に近づく歩みが福音
そして
そのようにして自ら神に近づこうとしつつ
周りの人々も同じように神に習うことで
人々の間に愛と平和と喜びが満たされるようにと
福音を述べ伝える活動もクリスチャンの大切な務めです
先の信仰者たちもそのように歩みながら
神の恵みを受けてきました

わたしたちもその人々に続く者として
自らの歩みを省み
神の前に低くなって
正しく歩むものとして成長していきましょう




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