今週のみことば
10月20日
「しかしベツレヘム・エフラタよ
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る
その出るのは昔から、いにしえの日からである」
(ミカ書5章2節)
ここは、救い主キリストがベツレヘムから出てくるとの予言の箇所です
神はユダの氏族の中でわざわざ小さい者を選び
やがて予言は成就します
神の選びに関しては
人間的に立派な人よりも
取るに足らない小さな者が用いられることが多いのは
人の誇ることがないためでしょう
わたしたちもこうして神に選ばれたひとりびとりではありますが
それぞれ自分は小さい者であるという認識を忘れてはなりません
ただし
闇雲にわたしはつまらない者だと悲観的な方向で考えるのではなく
神の前に頭を低くすることを第一とし
そのつまらない者を用い、装ってくださる神に
常に栄光を帰していきましょう
「ナタナエルは彼に言った
『ナザレからなんのよいものが出ようか』
ピリポは彼に言った
『きて見なさい』」
(ヨハネによる福音書1章46節)
当時イエスと両親はナザレに住んでいましたが
人々からは”そんなところ”と軽視されるような町からキリストが出るとは
信じられないと思われていたようです
かくして本当にイエスがキリストなのかどうか信じられないなら
自分で実際にきて見なさいとピリポは勧めます
この後
ガリラヤのカナの婚礼でのぶどう酒の奇跡を第一のしるしとして
イエスの奇跡の業が次々現されていくのでした
一見、取るに足らない者が神に用いられる
それどころか
使徒行伝においてはイエスを迫害していたパウロでさえも
一瞬にしてとらえられ、用いられています
「さあ、起き上がって自分の足で立ちなさい」
(使徒行伝26章16節)
ここからパウロは
人々にイエスの救いを持ち行く器として引き出されました
「それは彼らの目を開き
彼らを闇から光へ
悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ
また、彼らが罪の許しを得
わたしを信じる信仰によって
聖別された人々に加わるためである」(18節)
キリストの光に照らされることで
わたしたちは何が正しくて、どう生きていくべきかを教えられます
ひとりひとりがキリストに似る者として正しく整えられていくことこそ
キリストの証人になることなのです
「あなたがたは以前は闇であったが
今は主にあって光となっている
光の子らしく歩きなさい
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである
主に喜ばれるものがなんであるかを
わきまえ知りなさい」
(エペソ人への手紙5章8-10節)
こうして神に選ばれ、クリスチャンとして歩んでいながら
関心事は自分の健康と預金の額だけというのでは
あまりにも寂しいことです
ただ単に自分が世の中で言う勝ち組になることでもって
神の証人というのではありません
また
たとえ長く信仰生活を続けていたとしても
信仰熱心に見える外観ばかりに心が奪われ
それが本当の信仰を育む妨げになっているケースは珍しくないことです
服を作るために採寸する時
『力を抜いてください』と言われるのは
自然体でなくてはその人の正しいサイズが測れないからで
もし間違ったサイズの服が出来上がれば
きゅうくつな思いをしなくてはならなくなります
信仰もこれと同じで
神の前にいかに自然で格好つけず正直でいられるかが
重要なポイントとなるでしょう
取るに足らない小さな者だからこそ神が用い
すべては神に栄光が帰される
そのことを常に自覚しながら
正しい信仰感をつかんで進んでいきましょう
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