今週のみことば


10月21日

「わたしは八日目に割礼を受けた者
イスラエルの民族に属する者
ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人
律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者
律法の義については落ち度のない者である
しかし
わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは更に進んで
わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえに
わたしはすべてを失ったが
それらのものをふん土のように思っている
それは、わたしがキリストを得るためであり
律法による自分の義ではなく
キリストを信じる信仰による義
すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて
キリストのうちに自分を見出すようになるためである」
(ピリピ人への手紙3章5-9節)



イスラエル民族の血統を誇りとして
律法に厳しい生活をしながら
一方でイエスを迫害することに熱心であったパウロは
ある日突然イエスにその心を捕らえられ
それ以後
一切を捨ててイエスに従う者となりました

人間的に考えれば
以前の立場の方がパウロにとっては絶対優位なものでしたが
彼はイエスを知ることによって
それまでの自分の価値観ががらりと変わり
それらをすべて失っても
全く後悔などしなかったのです

かつて律法の中で暮らしていた時代と違い
自分がこれだけ律法を守っているから大丈夫との自分の正しさからではなく
ただ心からキリストを信じるその信仰によって救われる喜びは
失ったものとは比べようもありませんでした

”律法による自分の義ではなく
キリストを信じる信仰による義”

自分の頑張りに頼って自らの救いを得ようとするのか
あるいは自分の限界を知り
頭を低くしてキリストによる救いを望むのか
信仰スタイルはさまざまありますが
後者を選ぶべきことは
みことばからも明らかです

律法とは
それが生活の規範である間は今日においても大切なものです
しかし
現実には人間はとても弱くて
それらをすべて守ることはできません
わたしたちが抱く理想は色々あれども
現実は理想どおりには行かず
常に限界を目の当たりにすることが多いものです

「わたしは神の恵みを無にはしない
もし、義が律法によって得られるとすれば
キリストの死はむだであったことになる」
(ガラテヤ人への手紙2章21節)


人間がどんなに努力しても得られない救い
それを与えるために
イエスは十字架にかかり
その流した血を受ける洗礼のバプテスマによって
万民は救われる恵みを得たのでした
それがもし努力で得られるというなら
この十字架は無駄であったことになるのです

「キリストにあうバプテスマを受けたあなたがたは
みなキリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく
奴隷も自由人もなく、男も女もない
あなたがたは皆
キリストイエスにあって一つだからである」
(ガラテヤ人への手紙3章27-28節)


正統なユダヤ人として生まれ
自ら「律法の義については落ち度のない者である」と言わしめるほど
律法に厳しい生活を極めたパウロだからこそ
十字架の恵みを味わった今
以前の生活や価値観が
どんなにつまらないものであったかを実感しているのでしょう

結局
人が律法を極めようとすれば
それはいつしか偽善となり
人に見せるための上辺だけにこだわるようになるわけで
そこが人間の限界なのです

「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは
イエスキリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち
すべての人は罪を犯したため
神の栄光を受けられなくなっており
彼らは、価なしに、神の恵みにより
キリストイエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ人への手紙3章21-24節)

「キリストは
すべて信じる者に義を得させるために
律法の終わりとなられたのである」
(ローマ人への手紙10章4節)


人はしばしば
自らの信仰を自分で支えているように勘違いする場合がありますが
植物は根がその木を支えているように
人も、土台となる価値観(信仰)がその人を支えています

人は元来弱いものです
だから信仰によって支えられなくてはならない
十字架にかかったイエスを信じる信仰で
人は生かされていくのです

「次の言葉は確実である
もしわたしたちが、彼と共に死んだなら
また彼と共に生きるであろう」
(テモテへの第二の手紙2章11節)


十字架の死にかたどった洗礼のバプテスマを受け
一度この世に死んだものとなったわたしたちは
今、イエスと共に生きるものとされています

しかしまた
その心のうちにはなおも世への思いは残り
滅び行く宝に目が奪われることもあるでしょうし
離れがたい欲望との葛藤もあるでしょう
人が洗礼のバプテスマを受けたとて
それは救いの関門であり
その人がすぐに完成されたものになるわけではありません

わたしたちには
これから彼(イエス)と共に生きることが必要なのです
そうすることで
何が正しいかを学び、悟り、実践していくわけで
神の前に成長する歩みが大切です

だから
自らの努力なしに救われることは大きな恵みである一方
その後の歩みを正していく責任は
それぞれが負っていかなくてはなりませんし
歩みを通して神の働きを知り
やがて神の実在を真に実感する者となっていくのです

お金やものに重きをおく世の中の空しい価値観を捨て
今、神にあって与えられたこの環境の中で
感謝して生きることを学んでいきましょう
それがわたしたちにとって真に”生きる”ということであり
そうして生かされているものは
世の中がどんなに悪くなっていっても
絶望することはありません

その希望をもって
これからも前進していきましょう




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