今週のみことば


11月24日

「そこでイエスは
聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた
『こう、しるしてある
キリストは苦しみを受けて
三日目に死人の中からよみがえる
そして
その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが
エルサレムからはじまって
もろもろの国民に宣べ伝えられる
あなたがたはこれらのことの証人である
見よ、わたしの父が約束されたものをあなたがたに贈る
だから、上から力を授けられるまでは
あなたがたは都にとどまっていなさい』」
(ルカによる福音書24章45-49節)

聖書のみことばを悟るためには
まずその心が開かれる必要があります
内容によっては人は自ら心を閉ざす場合もありますし
持っている固定観念から外れる内容は
すぐに理解することも難しいでしょう

上記みことばに記された内容は
これからキリストの伝道活動を始める弟子たちにとって
はっきりと理解しなくてはならないものです
彼らはイエスによって心を開かれて
その大切な事柄を受け入れました

キリストは三日目によみがえること
そして
その名、つまりイエスの名による罪の許しが与えられること
(洗礼のバプテスマ)
今後、上からの力、つまり聖霊を与えられるので
そのことが起こるまで待っているべきことを
きちんと教えられたのでした

ここで
「見よ、わたしの父が約束されたものをあなたがたに贈る」
と記されている”わたしの父”=神とイエスの関係については
ヨハネの第一の手紙では以下のように記されています

「さらに、神の子がきて
真実なかたを知る知力を
わたしたちに授けて下さったことも知っている
そして、わたしたちは、真実なかたにおり
御子イエス・キリストにおるのである
このかたは真実な神であり
永遠のいのちである」
(ヨハネの第一の手紙5章20節)


”真実なかた”とは神のこと
そして、イエスも”真実な神”とあり
ヨハネによる福音書10章30節でも
「わたしと父とはひとつである」とイエスが語られているように
真の唯一の神=イエス・キリストであることが
聖書の随所に記され、教えられているのです

イエスの御昇天後
上からの助け(聖霊)が与えられるまでは
弟子たちはそのまま都にとどまるようにと指示され
彼らはその言葉に従いました
このみことばは弟子たちだけに与えられているものではなく
今日聖書を読むわたしたちにも
これから神のご計画が成就するまで
おのおの与えられた道を黙々と歩むべきことを教えてくれます

神の時が来れば、神のご計画は成就します
しかし、人はなかなかそれが待てません
だからこそ、みことばを心に留めて
その時が来るまで信仰を堅く保ち
祈って進まなくてはならないのです

このように
聖書をただ単に
これは弟子たちに向けた言葉だと限定して読むのではなく
神から与えられた天の恵みとして個々の生活に生かすべく
教会ではみなさんにお勧めしているわけですが
話を聞いてもその場でピンと来ない場合も多々あるでしょう
そういう時には
教えられたことを心に留めておくと
みことばが心の中で成長し
やがて生かされていく時がやってきます

みことばを教えられても
一方的に受けるだけで
個人の好き嫌いでそのまま流してしまうのではなく
心に留めておくと
いつかは芽が出てくるものです

信仰生活の基本は
みことばを聞いて、従って、やがて自分のものにすること
その積み重ねが魂の成長につながります
いつまでも自分を捨てないままだと成長がありません

イエスが弟子たちにゆだねた福音は世界中に伝えられ
今わたしたちも救いにあずかる機会を平等に与えられています

「だから兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい
すなわち
このイエスによる罪のゆるしの福音が
今やあなたがたに宣べ伝えられている
そして
モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても
信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである」
(使徒行伝13章38-39節)


かつて旧約の時代には
律法をかたく守ることでしか義とされなかったものを
イエスの十字架の血にあずかる洗礼と
上より与えられる聖霊によって
誰でも救われる時代がおとずれたことは
本当に有難く感謝な事です

もはや救いは律法の行為ではなく、洗礼と聖霊のバプテスマによることは
ガラテヤ人への手紙にも記されています

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく
ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである
それは律法の行いによるのではなく
キリストを信じる信仰によって義とされるためである
なぜなら
律法の行いによっては
だれひとり義とされることがないからである」
(ガラテヤ人への手紙2章16節)


このように
人が罪ゆるされて義とされるためには
自らの行いによることはあり得ず
ただ、イエスを信じて救いを受けることが第一であること
もし
人が自分の行いで義とされるなら
キリストの死は無駄になると21節には記されています

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは
皆キリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく
奴隷も自由人もなく、男も女もない
あなたがたは皆
キリスト・イエスにあって一つだからである
もしキリストのものであるなら
あなたがたはアブラハムの子孫であり
約束による相続人なのである」
(ガラテヤ人への手紙3章26-29節)


聖書には
人の救いについては実に単純に書かれていて
それをそのまま受け入れていけばいいようになっていますが
人はむしろそれを難しく考えて
自ら受け入れ難くする傾向にあります

聖書のみことばは
遠くにあって、息苦しく、守りづらいようなものではなく
本来は
近くにあって、心に平安を与えるものです
到底守ることもできないような難しい課題を
愛の神は決して持ってこられないのです

バプテスマを受けて救われることは
アブラハムの子孫として
神の約束を継ぐ相続人とされ
神がアブラハムに与えると約束した祝福を継ぐ者とせられます
これは何と幸いなことでしょうか
そしてこの幸いを
わたしたちは誰でも受けることができる機会を与えられているのです

「キリストの平和が
あなたがたの心を支配するようにしなさい
あなたがたが召されて一体となったのはこのためである
いつも感謝していなさい
キリストの言葉を
あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい
そして
知恵をつくして互いに教えまた訓戒し
詩と賛美と霊の歌とによって
感謝して心から神をほめたたえなさい」
(コロサイ人への手紙3章15-16節)


こうして
聖書のみことばを心に留めておくことで
わたしたちは上から与えられるものをすべて
感謝を持って受け入れていく者に成長させられていくのです
教えや訓戒といったものは
しばしば耳に痛いものですが
そういう言葉こそ最も必要であると心して進んでいきましょう




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